尾を引く

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尾を引く

2006年の3月15日。 僕は初めて泣いた。 いや、正確には「初めて自分の悲しさを涙で表した」と言うべきだろうか。 身長も体重も、髪型も至って平均的な小学5年生の男の子。 先生からの評価は可もなく不可もなく。 友人も多くも少なくもなく。 嫌われることがあっても好かれることだってある。 笑い方も特徴はなく、目付きだってそんなに怖くはない。 声は少しだけ低かったかな。 ただ、それだけだった。 算数は少しだけ苦手で、国語の方が得意だった気がする。 文章を読むのが好きで、家には父が買った本も隠れて読んだし、自分でもゲームを買うよりも本を買う方が多かった。 あ、でも、父の隠してあったちょっとエッチな本の表紙だけを、留守番している時に覗きに行ったのは内緒ね。 学校じゃ勉強よりも体育や図工の方が好きだった。 今思えば何かを作ったり、身体を動かした時に新しい何かが生まれることに興味があったんだと思う。 あれも体育の授業だったはず。 自分の抱いている感情を身体で表して、相手に伝えてみようっていうやつ。 今でも笑っちゃうんだけど、その時に好きな女の子とペアを組んで、なんとか「好き」って気持ちを伝えようとしたんだ。 けれどその時は「好き」って気持ちもよく分からなかったんだ。 小学生の恋なんてそんなもんだよね、きっと。 でもね その「好き」って気持ちは、他の子に気づかれてしまったんだ。 気付いた男の子もきっと僕と同じ女の子の事が好きだったんだと思う。 次の日 学校に行ったら黒板に愛愛傘があったんだ。 小さいながらに嫌な予感はした。 嫌な予感って何であんなに当たるんだろうね。 思った通りだ。 傘の中には僕の名前と女の子の名前があった。 もちろん急いで消した。 ひと呼吸入れるよりも先に身体が動いていたんだ。 名前と傘全体を消し終えて残るは傘の先っぽのハートマークに差し掛かった時。 背中に嫌悪感が蠢いた。 焦る手は止まり、肩から肘にかけてビリビリと痺れるような気持ち悪さが生まれる。 黒板から遠く離れた、教卓と僕の背中を突き抜けた先から ブファッ 1つ笑い声が噴いた。 男の子の声だ。 くけけけ 続くように女の子の押し殺した声が聞こえる。 それからの日々はあまり覚えてはいない。 春には桜が咲いて 夏には蝉が鳴いていて 秋にはお芋が美味しかったり 冬には街灯に積もる雪が綺麗だった事とか。 1年間が365日だった事とか。 習字の授業で墨がなくなったこととか。 いくら頑張ってもサッカーが上手くならなかったこととか。 夕飯に唐揚げがあったら嬉しいなとか。 何度も優しい言葉はあったはずなのに耳を塞いでいたこととか。 僕はあの女の子が気になっていたとか。 昨日の出来事や日常の何もかもが薄れながら、また新しい次の日がやってきて、何度も何度もそれを繰り返していた。 朧気な日々の中で唯一、希望だったのが小学校の卒業式。 明日、明日の卒業式が全ての希望だった。 卒業すれば生活が新しくなる。 新しい生活になれば過去をなくすことが出来る。 いや、無くならなくてもいい。 せめて せめて隠し通す事さえ出来ればいい。 僕に気になっていた女の子がいた事も。 それがバレて虐めの発端になった事も。 その発端は、同じ女の子のことが好きだった男の子な事も。 全てを隠し通しきればいい。 僕の小学校は不思議な伝統がある。 卒業式を終えたあと、クラス全体で集合写真を撮る。 集合写真を撮り終えたら、それぞれが進む中学校の校章を胸元に付けるのだ。 卒業と同時に新しい道へと進む姿を家族や先生、地域の人達に見せる。 その日は僕にとって珍しく、春の息吹と桜の香りが全身に巡っていた。 甘い甘い桜の香り。 何ならその香りで桜餅が食べたくなるくらい、僕の身体と心は昂っていた。 もう何にも囚われることなく生きることが出来る。 写真を撮り終えて、忌々しくも開放感に包まれた校舎を振り返る。 そこには見覚えのある校章が光る。 桜の木々の合間を縫って入り込む陽射しに輝かせ、その光は反射して校章付けた本人の首元を少しだけ明るくさせる。 彼だ。 男の子はこちらを見ている。 いや、僕の顔なんて見ちゃいない。 彼と同じ校章を付けた、僕の胸元を見ている。 クスりともしない。 僕が持つ卒業アルバムには、卒業生の夢と志しが書かれている。 僕は「幸せになりたい」って書いた。 とある男の子は「医者になりたい」って書いていた。 今ここで涙を流したのは 敗北なのか それとも勝利なのか。 僕の戦いはまだ、負けられないのだろうか。
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