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第1話
支配人試験を受けるにあたって、全国あちこちにあるホテルへ足を運ぶようになった。
今日の研修先は東京の五つ星ホテル。
大都会の真ん中にそびえ立つ、豪華な客室とスイートを備えた高級ホテルである。有名なレストラン、高級スパ、屋内プールを併設した、日本を代表するホテルと言ってもいい。そこで超一流の設備、超一流の接客に触れながらの研修だ。
天井が高く開放的なロビーは落ち着いた雰囲気で、控えめに流れるクラシックが耳に心地良い。長時間の座学疲れを癒やすべく、ふかふかのソファでひとつ、伸びをする。
と、突然静寂を打ち破るざわめき。吸音性に優れたはずの床にも響く大勢の足音、何を言っているのかはわからないが複数の口々に話す声。周りで何が起こっていようと特に気にならない性分だが、つい何事かとざわめきの方向へ目をやった。
ざわめきの中心と、目が合った。
全国に展開する呉服チェーン『きものの高杉』若社長だ。だがアヤは彼のことを、社長になる前から知っている。
若社長は上品な笑みを浮かべながら周囲を手で軽く制し、アヤのもとへ近づいてきた。周囲はよく躾された犬のように、その場で動かず待っている。
「佐倉さん」
まさか、相手も覚えているとは思わず、さらに声をかけてくるなんて思わなくて、アヤは少し動揺した。
「伊織くん……いえ、高杉社長。お久しぶりです」
立ち上がって恭しく一礼すると、伊織は照れたようにはにかんで首を振った。このはにかみは、あの頃のままだ。
ユキとはとうの昔に別離していることはわかっていた。あの夏以来、伊織がホテルを訪れることはなかったからだ。なので、その先はなんと言っていいか、会話がつながらない。
年齢を重ねてなお、まずます美しさが際立つ端正な顔立ちに、しばし見とれてしまう。触れてはいけないとわかっているのに、つい手を伸ばさずにはいられないような、毒をはらむ美しい花のような危うい魅力は、あの頃よりさらに増しているように見える。一体どんな風に過ごしてきたのか、興味がないと言えば嘘になる、が。
「ご活躍を拝見しております」
ここは一線引かないといけけない。あくまで支配人とその客、もっと言えば大事な人の大事な人だったのだ。自らを律するように、必要以上に仰々しく頭を下げた。
「やめてくださいよ」
クスクスと苦笑いするその顔も麗しくて、つい見とれてしまいそうになる。頭を上げなければ良かったと思うアヤだった。
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