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洋子はまだ若いので指名がかかることが多く、売上もこのファッションヘルスのお店でナンバーワンであった。
客は中年の酔っ払いが多く、決まって洋子の体のあちこちを「お触り」してくる。洋子はそんな酔っ払いを相手に「おじさん」が射精するまでしこしことペニスを握ってあげるのである。
洋子は、初めのうちは慣れない水商売でとまどったが、一年もするとかなり慣れてきた。
とんでもない仕事だと初めのうちは思っていたが、これが結構高収入になるのである。
洋子の店での名(源氏名)は「唯ちゃん」であった。
ひっきりなしにお客さんがやって来る。誰も彼も鼻の下を長く伸ばした中年のスケベ親父である。
「唯ちゃんご指名。五番テーブルのお客さんね」
元気なボーイの声がかかる。洋子は「はーい、ただいま」と言って五番テーブルへ急ぎ、今日も鼻の下を長く伸ばした中年親父を相手にする。
勿論、洋子は好きでこんな仕事をしているわけではない。その理由は全て母にあった。
*
その頃、家では異変が起こっていた。
母が息を荒くして帰ってくるなり、二階の兄の部屋の前で何かをブツブツと唱え始めたのである。
「高天原に神つまりまします皇が睦かむろぎ、かむろみの命もちて、八百万の神達を神集えに集いたまい、神はかりにはかりたまいて------云々。
この部屋にいる邪気邪霊ども、お清めをするので出て行け!」
そして洋子の兄、祐輔のいる部屋に向かって掌を向けたまま一心不乱に祝詞を唱え続けた。時々「邪霊出て行け!悪霊出て行け!」などと言っている。「悪霊出て行け」の後には、また大声で祝詞を上げる。「事問いし岩根このたち、天の八重雲を---。ああ、悪霊退散、悪霊退散」
この異変に祐輔が出てきた。普段は部屋から出ることはないんだが、何が起こっているのか気になったようである。
「母さん、うるさいなあ。何してるのん?」
「お前の部屋に居る邪霊を払っているんや。道場長さんから言われたんや」
「何言うてるのん?寝てるから出て行って」
「まあ、親に向かって何?その口の聞き方?やっぱり道場長さんの言うた通りや。お前には悪霊が憑いているんや。今、それをお祓いしてるとこや」
「悪霊が憑いている」と言われて祐輔の腑は煮えくりかえった。このパニック障害という病気が「悪霊」のせいだと言うのか?そう思って祐輔は語気を荒げた。
「うるさい!ばばあ!この部屋だけでなくて家中ゴミだらけやないか!何が悪霊や!」
「うるさい!こんな口を聞くのは祐輔やない。悪霊め、出て行け!出て行け、悪霊!」
その後、修羅場が繰り広げられたようである。洋子がファッションヘルスのアルバイトから帰った時には祐輔の部屋の前にはゴミが散乱していた。祐輔が母に向かって投げた物だということは、いつもの洋子の勘でわかる。
「母さん、またどうしたん?こんなに散らかして。また教祖様に何か言われたん?」
「生き神様(教祖様)やない。道場長さんや。道場長さんが祐輔のこともお清めせなあかんと言うてたんや。あんたも水商売で悪い霊が憑いてる。お清めせなあかん」
道場長というのは、母の入っていた教団の大阪支部長であった。何でも元警官であったが、妻の病気が治ったので警官を辞めて入信し、大阪支部長に収まっていた人である。
「またお金払ったんかいな。私が何のために水商売なんかしてると思ってんの?お母さんがお布施や言うて生き神様とやらに払うからやないの」
その次に母が発した言葉によって洋子は二の句が告げられなかった。「またか」という残念な思いと、この母に対する怒りでいっぱいになった。
「この子は悪霊が憑いてこんなこと言うんや。ほんまに悲しいこと。今度生き神様が道場に来はるからいっぺん見てもらい!」
「何が生き神様や。私、そんなとこ絶対行かへんからな」
こうした光景はこの家族にとって珍しいことではなかった。 母親が新興宗教の瑞法正法会にはまってしまってから日常的に繰り返されていた。
瑞法正法会は、戦後に出現した神道系の新興宗教であるが、各地に支部道場を持ち、福井県に本部を置いていた。
その本部には、所謂「生き神様」が居り、数々の予言をしていた。そして、この予言が当たったこともあって、全国に約千人の信者を持つ教団に成長していた。
大体、予言が当たるという現象は、決して珍しいことではない。悪霊でもいくつかの予言をして、それが当たることもある。それは、洋子がキリスト教会で牧師から聞いたことであるが、当時の洋子には勿論、そんなことは分からなかった。
この教団の教理は難解なものではない。
この世の不幸には悪霊や不成仏霊が介在しており、それらを「お清め」と言う方法で払って、幸福をが得られると教える典型的なご利益宗教であった。
洋子の母は、夫を癌で亡くし、その後息子の祐輔が引き籠りになったことによって、それを「不成仏霊」の仕業と思いこんでしまっていたのだ。
また、この不成仏霊を払うためには生き神様から「御霊分け」をしてもらう必要があった。「御霊分け」をしてもらうと、神の霊が乗り移り、悪霊を追い出すこと、すなわち「お清め」ができるのだ。何でも、それを行うと神の霊が神事を行った人間の魂に入ってくるというものらしい。
「御霊分け」は三十分くらいの神事ですむが、それには百万くらいの玉串料がかかる。
そのお金は洋子の母親が洋子から借りていたのだ。
また、毎月の月並祭が第一日曜日にあって、その時には数十万の玉串料がいる。
当然、そんな大金を保険の外交員の母親の給料で賄うことはできない。洋子がファッションヘルスのアルバイトをすることによって支払っていたのだ。洋子自身もそのお金が馬鹿げた新興宗教へ行くことを分かっていながら母親に渡していたのだ。お金を払わないと言うと悪霊扱いにされるので仕方がない。
しかし、母親は洋子が「夜の仕事」をすることを快く思っていなかった。
教祖(生き神様)や道場長から「悪い霊が憑く」と言われたからだ。
また、洋子も母親も家を掃除せず、しかも猫が汚すので家は散らかり放題であった。
この猫を飼っているのも教義と関係がある。
瑞法正法会では、生き物と人間は同等であり、生き物の不成仏霊も災いを下すとされ、生き物に恩を売ることによって、それらは清められると教えていた。
従って、洋子の家では家猫を飼っていたのである。
洋子は元来猫や犬が嫌いではなかった。しかし、母親が猫を飼い始めた動機が気に入らず、また猫といえども避妊手術などに高額のお金がかかるので、嫌がっていたのだ。
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