生き神様の痰を飲んだら引きこもりなんか治る

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生き神様の痰を飲んだら引きこもりなんか治る

(二)  六月の第一日曜日、道場には数十名の信者が集まっていた。勿論、その中には洋子の母親もいた。月並祭である。いつもは意気消沈している母が、この日だけは嬉々として出かけて行った。母にとってはこの宗教だけが生きがいなのであった。  そして、この日の月並祭は特別であった。教祖であり、生き神様とされていた戸田瑞宝女史が道場に「おこしになる」日だったのだ。 戸田瑞宝は、年の頃四十代くらいの見た目はごく普通の「おばさん」である。少し恰幅がいいくらいで、それ以外は取り立てて特徴のない教組であった。世の新興宗教の教祖のような威厳は全く感じられない、気さくな人でもあった。  しかし、病気治しや予言、悪霊払いには定評があった。  戸田女史が講壇から息を吹きかけると信者は皆後ろへ倒れる。また女史が持っていたハンカチを患部に当てて寝ると病気が治ると言われ、実際にその方法で病気が治った人もいた。中には女史の痰や耳垢を持って帰って飲んだら病気が治ったなどと言う奇怪な話もある。  洋子の母はそんな情景を何度も見て、完全にこの教祖に心酔してしまったのだ。実際は病気を治す宗教なんかは日本では珍しくはない。しかし何も知らない母は知り合いの勧めでこの宗教の集会に出かけ、病気が癒やされる場面を何度も目撃し、「これは本物だ」と思ったらしい。それ以後は娘や息子にもこの宗教をしつこく勧めていたのだ。    朝から月並祭は始まった。  洋子の母親は、知りあいの「先輩」と挨拶をすませると、真ん中の畳に座布団を敷いて陣取った。  道場は小奇麗に掃除されており、マイクのついた小さな講壇と神棚、そして後はパワーポイントでスライドを映す映写機と、そのための机が置いてあるくらいであり、一面畳敷きであった。信者はその畳の上に座布団を敷いて座る。そこで道場長の話を聞くのである。  先ずは道場長の先導で祝詞が詠み上げられる。祝詞が詠み上げられる間は立ったままで、終わると全員が座布団を敷いて座るのだ。  祝詞の奏上が終わると、道場長が開口一番告げる。  「今日来られた方でおかげ話のある方いませんか?」  おかげ話とは、何かご利益があったら報告するということである。  二、三人のご婦人が手を上げる。  つかつかと手を上げたご婦人が前へ進み出てきた。  息子が大学受験に合格したらしい。  また、別のご婦人がマイクの下へ進み出た。  腰痛が治ったということである。  どれもこれも際立って珍しい話ではないが、みんな神妙な面持ちで聞き入っていた。  その後、道場長はマイクを握りしめて言った。  「皆さんもご存じの通り今日は特別な日です。生き神様でいらっしゃる戸田瑞宝先生が、当道場にお見えです。先生が登壇しますから拍手をもってお迎え下さい」  そして、拍手の中、教祖が登壇した。  着物姿ではない。神主の姿でもない。普通の奥様の普段着である。ワンピースを着ているので腹が少し出ていることが目立つ。そこからは威厳も何も感じられない。  これが現代の「教祖」の特徴である。  教祖がマイクを持つと、一同は急に静まった。最初にどんな言葉が発せられるか緊張の一瞬である。  「おかげ話ありがとうございました。神様も皆様の健康とご多幸を願っておられます。ところで、この瑞宝正法会に入って、何かおかげのあった方、例えば病気が治ったとか家庭が平和になったとか言う方がいらっしゃったらどうぞ手を上げて下さい」  そう言うが早いか信者のほとんどが手を上げた。  「では次にお聞きします。まだ、おかげがなく、ご自分やご家庭に不幸が続いていらっしゃる方、手を上げて下さい」  二、三人が手を上げる。  洋子の母も手を上げた。  「ご不幸は浄化のためです。もう少し辛抱して下さい。神様はきっとよくして下さいます。  あ。ところで、そこの黄色のワンピースのご婦人、そう、あなたです。お子さんのことでお困りですね。今、神様からお声があり、お助けするようにということです」  洋子の母のことである。  「前へ出てきて事情を説明して下さい」  洋子の母は畏れてしまった。相手が教組様(生き神様)であるということと、自分の問題を言い当てられたので平伏する以外になかったのだ。  洋子の母は恐る恐る講壇へと進み出る。  「ではご説明をどうぞ」教組が言った。  洋子の母がマイクを片手にぎこちなく話し始める。  「はい。私は主人を癌で亡くしこの瑞宝正法会に入会致しました。その後、私の長男は一流大学に受かり、娘も大学に合格するというおかげを頂いたのですが、先ず兄の方が大学を辞めてしまい、今では自分の部屋に引き籠ったまま出てこないのです。もう三年になります。妹の方は仕事があるのに夜は水商売をしております。この子も大学を中退致しました」  間髪を入れずに教組の「お言葉」がかかる。  「ほほう、これは先祖が浮かばれていませんな。今、ご主人のご先祖が地獄で苦しみ、助けを求めています。  わかりました。明日、私があなたの家へ出向いて先ずは息子さんを説得しましょう」  「でも、息子は病気なんです。出てこいと言ったら暴れます。」  「そんなもの病気のうちに入りません。どこも悪いところはないんでしょう?でも引き籠っている。そうなんでしょう?」  病気であることを否定されたら頷かざるを得ない。  「そうです」  「ご飯はどうしてるのですか?」  「私が部屋の前に置いておきます」  「それがいかんのや!働きもせん者に飯食わさんでもいい!とにかく私が明日行きましょう」  「息子は一応鬱とパニック障害なんですけど」  洋子の母は気力を振り絞って言った。そう、息子は病気なのだ。何も怠けているわけではない。  しかし、言葉を継ぎ足すように教祖が言った。  「だから、そんなもの病気じゃない!私が助けようと言っているのや!嫌か?大体鬱って何や?私かて気が沈むことくらいある。そんなもんに病名をつけるな!それから何かパニックにでもなるのか?」  「はい、息子は電車に乗れません」  「なんじゃそれは?だから私が行く。嫌か?」  「いや、滅相もありません」  相手は「生き神様」である。「嫌」とは言えない。  そこへ先輩信者が口をはさんだ。  「生き神様がそうおっしゃっているのよ。信じなさいよ」  「そうよ、そうよ」  信者の何人かが一斉に小声で言っていた。  「では、散らかってますが、お越し下さい」  こうして、翌日「生き神様」がやってきた。  生き神様は、屈強な道場長と連れだって夜にやってきた。昼間は祐輔も寝ているし、仕事もあるので駄目だとあらかじめ母親が言っておいたからである。 「やい、どら息子、出てこい!」  祐輔の部屋のドアの前に立った「生き神様」の第一声であった。  「あんたは仕事もせんと、いつまでお母さんを苦しめる気や?出て来ないなら鍵壊して入れてもらうで!」  突然の呼びかけに祐輔は怯えた。一体何なんだ?  「(聞いたこともない罵声とともに俺をののしる奴は誰だ?母さんも俺が病気だということを誰にも告げてなかったのか?もしかしたらこの女の人の声が母さんがよく言っていた『生き神様』なのか?)」  生き神様の説得はなおも続く。  「出て来ないなら明日から飯抜きや!お母さんにもそう言うとく。恨むんやったらこの戸田瑞宝を恨み!」  「(戸田瑞宝!間違いなく生き神様だ)」  元警察官で屈強な道場長も叫ぶ。  「祐輔君、出てきなさい。何も手荒なことせえへんから。私はお母さんの入ってる瑞宝正法会の道場長や」  「(こんな奴を部屋に入れてなるものか!お母さんから聞いている。元警察官で柔道五段空手五段の男や。無理矢理引きずり出されるに決まっている)」  祐輔は余計に頑なになっていた。  たまらなくなった母が言った。  「生き神様が言うてるんや。祐輔、悪いことは言わへん。ドア開けて」  一体どうなっているんだと思って祐輔がドアを少し開けた途端に教祖は祐輔の髪の毛を鷲掴みにした。そして祐輔を廊下に出して正座させた。  「このぼけが、出てこい言うたら素直に出てこい」  廊下に引きずり出された祐輔に対し、生き神様はなおも立て続けに言った。祐輔が「生き神様」を見ると、髪の毛が逆立ち、眼光は鋭く、仁王のようなおばさんであった。もっと優しい人かと思っていた期待は見事に裏切られた。  「私が戸田瑞宝や。殴れるもんやったら殴ってみい。出来へんやろ。あんたが引き籠っている間にこれだけ体力が落ちとんのや!ようわかったか?」  祐輔は思った。「(俺だって好きで引きこもっているわけじゃないんだ。俺は電車に乗れない。病気なんだぞ)」そう思って告げた。  「僕、病気なんです。お母さんから聞いてないんですか?」  「そんなもん病気やあらへん」  「何言うてるんですか。こんなに薬飲んでるんですよ」  そう言って祐輔はいつも飲んでいる薬を取り出す。  「なにい?これがぼけなすに効く薬かいな。 そんなもんよりあんたの怠け癖が治るええ薬がある。おい、鍋島。あれや」  道場長が教祖に言われるまま、何か液体のようなものが入った瓶を取り出した。  「これ飲め!」  道場長が祐輔の口をこじあけて中にどろどろとした液体を注ぎ込む。  「うえっ、臭い。何ですか、これ」  「生き神様の痰や。これで病気なんか一発で治る」  道場長が告げるとともに祐輔はえずき始めた。  「おえー、おえー」  洋子はその様を黙って見ていたが、たまりかねて口を開いた。  「お兄ちゃん、ほんまに病気やねんで。そんなもん飲まして、どないするつもりですか?」  教祖は言った。  「あんたが水商売の淫乱娘か。あんたもこっち来て座り」  「嫌や。私、お兄ちゃんと違うもん」  そして階下へ行こうとする洋子を道場長が払い腰で投げ飛ばし、座らせた。  「あんたも水商売の悪い霊が憑いてるんや。一回道場へおいで」  「嫌や。私、そんなとこ絶対行かへん」  「まあ今はええわ。鍋島、そのどら息子を押さえとき!」  道場長がどこから取り出したのか、ロープを使って祐輔を後ろ手に縛り上げた。  そして、一心不乱に祝詞を詠みあげると、祐輔を正座させ、「儀式」が始まった  「悪霊退散!悪霊退散!」  教祖が平手で祐輔の背中を思いっきり叩き始める。  「悪霊退散!悪霊退散!」  母親も祐輔の背中を叩き始めた。屈強な道場長もそれに加わった。  「ええい!悪霊退散!悪霊退散!出て行け!悪霊め!」 「この悪霊はなかなか強いなあ。おい、鍋島、水や」  そう教祖が告げると、道場長は階下へ降りて行った。そして、バケツに水を汲んで戻って来るなり、それを祐輔の顔めがけてぶちまけた。  「悪霊、出て行け!」  教祖は数珠を持って何回も祐輔の顔を叩き始めた。そして今度は一心不乱にマントラを唱え始めた。  「ノーマクサンマンダー、ノーマクサンマンダー。悪霊め。出て行け!ノーマクサンマンダーバタナンマクノーマクサンマンダー!悪霊め。出て行け!キエーイ!」そう言うと、また数珠で祐輔の頭を叩き始める。  祐輔を叩いていた生き神様の手がふと止まった。そして生き神様は何か奇妙な声で鳴き始めた。  「みゃー、みゃー」  道場長が言う。  「生き神様に何か動物霊が入ったようやな。よっしゃ、わしが聞いてやる。生き神様、何の霊が入ったのですか?」  「わしはここに飼われていた猫じゃ。供養が足らん。供養じゃ」 そして生き神様は祐輔の顔を叩きながら母親に告げた。  「最近亡くなったお猫様はおるか?」  「はい、お猫様が亡くなったので、葬儀を済ませたところです」 「位牌はあるのか?」  「そんなものはありません」  「この馬鹿者が!お猫様の位牌と戒名がのうてどうやって供養するのじゃ?今すぐに位牌を買ってきてねこまんまをお供えするのじゃ!」  「はい。わかりました」  「それからお狐様の霊もいるぞ。油揚をもってこいと言っている。心当たりはないか?」  「狐なんかは飼っていません」  「お前のご主人の先祖がお狐様を殺しておる。供養するのじゃ」 「はい、わかりました」  これを聞いていた洋子は思った。  「(この上猫と狐を祀れって言うの?そのお金はまた母さんが私にせびるんだわ---)」 そう言うと生き神様は、また祐輔の背中を叩き始めた。  「えーい!悪霊退散!悪霊退散!」  道場長と母がそれに加わる。  「悪霊退散!悪霊退散!」 背中を叩かれるたびに祐輔はゴホンゴホンと咳をする。  「(この人達、狂ってる。完全に狂ってる)」  洋子はその異様な状況に言葉も出なかった。  この儀式は一時間程続き、教祖が何か「キエーイ!」と叫ぶとともに終わった。 その後、教祖は母親に告げた。  「この子は明日からでも働かさなあかんなあ。でも三年も引き籠っていた人間を雇ってくれるところもないやろ。どや?うちの本部道場の住み込みでもさせへんか?」  「そ、そんなのよろしいのですか?」  「大丈夫や。私がちゃんと面倒みる。同じような子がうちの本部にはあと二、三人居るねん」  祐輔が慌てて言った。こんなおばさんの所へ連れられて行ったら何をされるかわかったもんじゃない。  「僕、福井なんか行けません。電車に乗れません」  その途端に教祖のビンタが祐輔の頬に飛んだ。  「私の車で連れてったる。甘えは許されへんで。朝五時起きや」  誰も何も言わなかったので祐輔は尋ねた。  「あのー、パソコン持って行ってもいいですか?」  「そら、甘えが出た。そんなもん置いていき!」  こうして洋子の兄は教団の福井の本部まで「強制連行」された。  兄が帰ってきたのは、その二年後であった。           *    「兄が行ってしまったので家庭に平和が戻って来る。もう『夜の仕事』をしなくてもすむ」  洋子は秘かにそう思ったが、その考えは甘かった。  母が、瑞宝正法会の「お祭り」に参加するたびに金銭を要求してきたからである。  「洋子ちゃん、すまんなあ。またお金貸して」  「また神さんかいな」  「ええやんか。これであんたや祐輔に幸せが来るんや。ちょっとだけや、必ず返すから」  「そんなこと言うて、今まで貸したお金が一回でも戻ってきたことがあるの?」  「そんなこと言わんと。な。ちょっと十万だけや」  金を借りる時だけは母は低姿勢である。  「そないお金ばっかり使いよったら私、大学へ戻られへんやないの。」  「お前はまだ大学へ戻るつもりでいるんか?お前は夜の仕事にどっぷりと浸かってしもとるやないか?そんなんでどうやって勉強するんや?」  そう言ったかと思うと母の顔は鬼の形相に変わっていた。寺の門にある仁王様と同じ顔つきであった。これでは母か洋子かどちらが悪霊か分からない。母の顔と声は悪霊そのものではないか?  洋子はお金を貸すたびにそう思うのだった。  「わかった。もう今回だけよ」  「有難う。洋子ちゃん。恩にきるわ」   こんな状態だったので、どうしても「夜の仕事」をやめるわけにはいかなかった。女が手っとり早く金を稼ぐ最上の方法はこれしかなかったのだ。  しかし、洋子は時々不甲斐のない自分に嫌気がさすことがあった。  「(私が仕事をかけもちして稼いだお金は何に使われているの?  引き籠りの兄を食べさせるためと、母親の新興宗教へのお布施。  一体私が何をしたって言うの?高校の同級生はみんな大学へ行ったり、働いたりして、自分のお金は自分で使っている。でも、私にはそれが許されない。もう家出しようかしら。でも母が心配するに決まっているから、それも出来ない。一体どうしろって言うの?)」 (三)  そして二年後、兄の祐輔が帰ってきた。帰る前に兄から手紙が来たが、それを見た洋子は寒気がした。完全に教祖に洗脳されていると思ったからだ。しかし母は「立派になった」と喜んでいた。  「母さん、洋子。二年間ご心配をかけました。その前に僕が引きこもっていた間も家族に迷惑をかけてすみませんでした。生き神様の下で修行させてもらい、僕は生まれ変わりました。福井の教団本部に着いてから、先ず僕は水垢離をしました。滝に打たれて今までの罪汚れを洗い流し、先祖供養や動物供養も済ませました。これからは母さんにも洋子にも幸せがやって来るでしょう。  戸田瑞宝大先生は本当に生き神様です。天照大御神の生まれ変わりと言われておりますが、私から見た先生はお釈迦様かキリスト様です。こんな僕を拾って下さり、修行をさせて下さいました。  そして修行をさせてもらう中で先生の言う『親の大恩』『国の大恩』『地球の大恩』の意味がようやくわかりかけてきました。  今では僕も悪霊の追い出しが出来るし、病気を治すこともできます。生き神様の御霊を頂いたからです。  修行では水垢離や火渡りもしましたが、本部の教祖殿の大掃除や庭の掃き掃除なんかもやりました。引きこもっている間、働くことがこんなに楽しいとは思っていませんでした。  ところで、洋子はまだ『夜の仕事』をしているのでしょうか?それが心配です。男に触られると男の持っていた悪い因縁がうつるのです。もしもまだやっているようだったら、今度帰った時に私からやめるように言いましょう。  今度はお盆の頃に三日間休みを頂いて帰ります。その時には連絡します。                      祐輔」 *
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