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先ずは洋子の日常から
「生き神様」
(序)
ここはとあるキリスト教会の礼拝堂。三十人くらいは入れる小さな教会堂と講壇があって、講壇の後ろの壁には十字架が掲げられている。地方にはよくある教会であり、取り立てて言う程の大教会でもなければ、潰れそうになっている教会でもない。日曜日には、その教会堂いっぱいに人が入り、礼拝が行われている。
その教会には二階があった。ステンドグラスで飾られてイエス=キリストの絵が描かれている。よく見ると十二使徒もいる。一人が寝起きするにはもってこいの広さの二階である。普通は気分が悪くなったりした人達のために使われていた。だから牧師の説教も賛美歌もここからだとよく聞こえる。
その二階に洋子は間借りしていた。布団と枕があって、一人が生活するにはやや狭いが、眠れないような所ではない。そこで洋子は夜は布団を敷いて寝、昼間はコンビニの店員として働きに出かけていた。布団は教会堂を出る時には綺麗にたたまれて押し入れにしまわれるのだった。
洋子がここへ来てもう一年になる。
洋子は、ここへ来るに至った出来事に思いを馳せていた。
一年前、洋子はこの教会へ転がり込んできたのだ。
キリスト教なら助けてもらえると思って。
事の発端は、母の入っている新興宗教であった。神道系の新興宗教であったが、公称信者数は全国で千人くらいの小さな教団であった。祝詞を唱えたりマントラを唱えたりしていたら幸福が訪れるという御利益宗教である。母に何か御利益があったかと言えば、全くない。しかし信者の御利益を発表する「おかげばなし」なんかを聞いて、ここに入れば御利益が得られると思って入っていたのであろう。母は、この信仰をやっていれば、家族みんなが上手くいくと考えていたようであった。
しかし、内実は全く違っていた。
元々、宗教というものは何のためにあるのだろうか?
「平和」「心の安定」「富」「死後の安らぎ」
色々と考えてみたが、母の入っていた宗教には、このどれもがなかった。
しかし、母は信じて幸福を得たように思ったのであろう。未だにそこから抜けようとはしていなかった。
兄も母の言われるままに信仰を続けている。
しかし、母も兄も「ご利益」はおろか、心の安定さえ得られていないように思う。
だから、洋子は逃げてきたのだ。
そして、洋子をたまたま拾ってくれたのがキリスト教であった。
また、洋子は母の宗教に多額の寄付をするためにお金をはたいてきた。もともとは洋子のお金である。母には大金を出せる能力がない。兄にもない。だから母はお布施を洋子から借りて出していたのだ。もし出さなければ母から「悪霊」扱いされるので言われるままに出してきた。
今は母とも別れて暮らしているので、お金を渡す必要はない。コンビニでアルバイトをしているが、その収入だけで十分にやっていける。
これが本当の洋子の求めていて「幸福」ではなかったのか?
当たり前の暮らし、当たり前の分相応の生活。これで十分なのだ。聖書にも書いてあった。「着る物と食べる物があれば、それで満足しなさい」と。
「一体『幸福』って何なんだろうか?『お金?』女にとっては『結婚』かな?でも私はそんなもの求めていない。
牧師先生や牧師夫人は『神との交わりの時』が一番幸せだと言っていたけれど、私にそんな信仰があるのかなあ?
高校の時に倫理で習ったことがある。
幸福になるには、欲望を満たすか、欲望を減らすかすればよいと。
成程、誰もが欲望を満たすことが幸福と考えている。だからご利益宗教が大流行するのだ。しかし、欲望そのものを減らし、聖書でパウロが述べている通り、『着る物と食べる物』で満足できれば、お金なんかなくても幸福になれる」
今、洋子は欲深い母や兄から離れて、少欲知足の生活を覚え、本当に幸せである。
勿論、キリスト教会にも「ご利益」を求めてやって来る人はいるし、実際に「ご利益」もあるらしい。
しかし、そんなことよりも、洋子は今の「何も持っていない」幸せをかみしめているのだった。
(一)
洋子は母子家庭で育った。三つ違いの兄と母親との三人家族である。
父親は、もう随分前に癌で亡くなっていた。
父が亡くなる時に保険金が入ったので、そのお金で家を増築し、構えは立派な家に住んでいた。木造であるが、二階建ての家であり、庭まで整備されていた。そしてなぜか鍵がなかった。都会の中に資産家の家がぽつんと建っているという感じであった。
しかし家計は常に切迫状態であった。
母は保険の外交で働いていたが、収入は不定期的であり、兄はもう三年以上も自分の部屋に引き籠ったままで、家を一歩も出ようとはしなかった。
兄の食事の世話は母がしていた。
朝と夜に膳を運んで来て兄の部屋の前に置いておくのだ。
昼食は台所に用意してあるので、洋子と母が出かけている間に食べているようであった。時々冷蔵庫の中のものも消えていることがあった。
それから猫が二匹いた。
洋子は外で飼って欲しいと頼んだのだが、完全な家猫になっていた。母の意向からである。
洋子は仕事を二つかけ持っていた。
昼はオフィス街でOLとして働き、夜はファッションヘルスでアルバイトをしていた。
大学は中退していた。
洋子の家の家計が学費を払うのに追いつけなくなったからである。奨学金もあったのだが、それも家計のために使われてしまっていた。その理由は後述する。
兄も大学中退である。私立では一流の工業系の大学へ通っていたのだが、急に電車に乗れなくなって、学校へ行かれずにそのまま中退してしまい、それから部屋から一歩も出ようとしなくなったのである。
兄の病名は「鬱」と「パニック障害」であった。
この兄と洋子に対して母は常に不満を漏らしていた。
「二人ともせっかく大学までやってあげたんに、退学してしもて」
これは母の口癖のようになっていた。
しかし兄にも洋子にも言い分はあった。
先ず兄であるが、この兄の名は祐輔と言い、大学3年の時に通学の電車に乗っていて、突然言い表しようのない不安に襲われた。余りの怖さに大学まで行けず、途中の駅で電車を降りた。
それからは、電車に乗るたびに言いようのない不安に襲われるというのだ。だから大学へは行かなくなり、部屋から一歩も出なくなったのである。そして、三年もの間、一歩も外へ出られなくなってしまった。
一方、洋子も大学へ通っていたのだが、途中から授業料が払えなくなり、大学をやめて働き始めた。
一応は休学ということになってはいたが、事実上の退学である。
*
洋子は大阪市内の専門商社で事務員として働き始めるが、「夜の仕事」があるので、同僚とのつき合いがあまり良くなかった。
ある日のことである。同僚の女子社員が洋子に声をかけた。いつもよくある光景である。
「洋子ちゃん。今日、合コンがあるんやけど一緒に来ない?」
「御免。今日は用事があるから私帰ります」
「いつも用事があるようやねえ。一体何?」
「ほんと。つき合い悪いわねえ」
「ねえ、いつもどこ行ってるの?彼氏の所?」
「(彼氏のところだったらいいんだけど、これから『夜の仕事』なんだ。でも『夜の仕事』のことを知られるわけにはいかない)」
「あのー。それは---」
「もうわかった。じゃあ、私達行くね」
これが洋子の日常であった。
勿論、洋子はこの後バイト先のファッションヘルスへ直行することなど告げるわけにはいかない。アフター5は水商売のアルバイトなのである。
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