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最後の挨拶
「じゃあ、喋ることないから切るね」
「わかったーおやすみ」
この最後の挨拶は、僕がその夢を見る三週間前の出来事だ。それが彼女と直接言葉を交わした最後だった。
僕は絶えず彼女のことを、この三週間忘れたことがなかったが、同時に忘れようと努めた。異国の地にいる僕には彼女に気軽に会えないので、連絡先を消去してしまえば、いないも同然である。
だができるだろうか、君がもし、8年間も共に過ごしてきて、そのうち恋人だった時間はそれほど長くはないけれど、それでも今年の正月にキスをした人間を忘れることができるだろうか。
僕はそれができなかった。
付き合っていたのは高校生の時と、そうして彼女から告白されて受け入れた今年の1ヶ月間。僕はまた異国の地に引き返さなくてはならなかったから、会えた時間はそれほど多くなかったけれど、それでも一緒にいて楽しかったし、結婚するなら彼女しかいないと思った。
それでも別れとは唐突にやってくるもので、誕生日前日、彼女から別れを切り出された。
8年も一緒にいれば自ずとその人の人物像がわかるだろう。彼女は、いや、明音は、一度言い出したらなかなか考えを買えないような女の子だった。
だから僕はすんなりと受け入れた。受け入れて、もうこの先彼女と関わることなんてないのだろうと思った。
だが以外にも、その状況を覆したのは彼女の方であった。誕生日後にした電話の抜粋である。
「あの時、本当は少しだけ別れないでって言って欲しかったの」
「でも君は一度言い出したら聞かないじゃないか」
「分からない、今の自分の気持ちが」
こんな感じのことを二時間くらい喋っていたような気がする。あの高揚する感覚を必死に否定しながら、それでも夏休み日本に帰った時、一緒に旅行に行こうという話をして、それで終わった。
そうして数週間が過ぎて、徐々に彼女からの連絡が途絶えた。いつもならそんなことはしないのだが、ラインの返信が二日置きになった。電話をしようとしても、忙しいからと言って取り合ってくれなかった。やっと電話ができるとなって、最後になるとはつゆ知らず、呑気に電話をした。
だがいつものあの和気藹々とした雰囲気などどこ吹く風で、マシンガンのように喋る彼女は、何も言わずただ黙っていた。
本当に気まずかった。
僕は何も聞けなかった。
彼女は何も言わなかった。
ただ僕が最近どんな感じか聞いたら、彼女はこう答えた。
「知り合いの異性が増えて、世界が広がった」と。
それが一体何を意味するのか、珍しく口数の少ない彼女から推察することはできなかった。
そうして僕は全てが嫌になって、捨て台詞を吐くように電話を切った。
それが三週間前のことである。
そして、それが彼女のと交わした最後の挨拶である。
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