春色の君

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『おう、じゃあ、欲張りなお前の願いを叶えてやるとするか』  自室の扉が勢い良く開いた。慌ててもたれていた椅子から立ち上がる。眩暈がしそうな感覚がした。君がいる。若かりし日の姿のまま、五十年も前の姿のまま、君はこちらを見つめていた。スマホを耳にあてたまま喋るから、スマホと肉声が重なって僕の耳に届く。 「『随分老けたな。感傷にばっか浸ってるからじゃねえか?』」 「君が変わらなすぎるんだ。一体、これは」 「『迎えに来たんだよ。……また、一緒に遊ぼうぜ』」  僕はスマホを手に持ったまま、君の元へ駆けだした。これからは、今度こそ君とずっと一緒にいられると確信した。遠く、遠くで高く長い電子音を聞いた気がする。君の肩越しに、満開の桜の花を見た。 「……これで良かったの? おばあちゃん」 「ええ。これでこの人の、唯一の未練が無くなったでしょうから。安心して送り出してあげられるわ」  病院のベッドの上、祖父は安楽死を受け入れた。心電図モニターが発していた高い音が切られ、祖父を取り囲んでいた様々な機器が外されて行く。頭についていたおびただしい数の電極は、祖父の肉体以外の全てをデータ化するためにつけられていたものだ。 「あの人はね、とてもいい夫だった。私もとても幸せだったの。ちゃんと私や、私の家族を愛してくれていたと思っているわ。それについて不満は一切ないの」  祖父の穏やかな寝顔を優しく撫でて、祖母は少し痛そうに笑う。 「でも、この人には、私じゃ埋めきれない穴があったのよ。それが悔しかった。でも、きっと、それがこの人の魅力でもあったと思うのよね。危うげで、支えてあげなきゃって思ったの」  実際は思った以上にしっかりした人だったんだけどね、と茶目っ気のある笑顔を見せる祖母。寂しくなかったのかを問うと「最初はね。でも、この人の思いは伝わったし、子供ができたらそれもうれしくてね。だから大丈夫になっちゃったの」と笑う。 「さて、これで私も、安心して向こうでこの人に会えるわ。……もうひと仕事お願いするのはまた今度にしましょう」 「うん。……ねえ、本当におばあちゃんも、すぐ行っちゃうの?」 「あら、寂しい?」  祖母は、祖父を撫でた優しい手で私の頬を挟んだ。長ネギの匂いがする手だ。昼に食べた蕎麦を思い出す。祖父は薬味をたっぷりのせて食べるのが好きだった。一見質素な、祖父の最期の昼ご飯。脂っこいものが苦手になって久しい祖父の、大好物だ。 「寂しいよ。AIになったら会話はできるけど、こんな風に触れあえないし、ご飯も作ってもらえないもん」 「私が作れなくなってもお母さんやあなたが、私の料理を受け継ぐのよ。AIに限界があるとしても、私の生きてきたことは消えない。この人もそうよ。私たちはちゃんと、あなたたちのそばにいる。AIだけじゃなくてもね」  祖父の体は、祖母に付き添われて運ばれて行った。それを見送って、私は病院を後にする。母は仕事終わりに私を迎えに来てくれた。すでにAIのホログラム祖父と会話をしている。AIの祖父は私が近付いてきたのに気が付くと、片手を上げた。 『ありがとう。おかげでスムーズにこちらに移行できたよ』 「そう、問題なさそう?」 『ああ、意外と快適だ。腰の痛みもないし、いろんなことを同時に考えられるんだ。解き放たれた気分だよ』 「お父さん、あんまり無理しないでね? 最初は慣らしながら、ね」  私は、AIの祖父と母と会話しながら、今までの祖父と今の祖父について考えていた。蕎麦が好物の祖父と、骨付きの羊肉でカレーを作る祖父は、同一の人物と言えるのだろうか。何周も何周もめぐった考えの後、私は、祖父の最期——旧い友人に会った時の顔を思い出した。きっと、これが全ての答えなのだろう。もうこの地上でソメイヨシノは咲かなくなった。しかし、祖父の記憶では咲き誇っている。  春らしい春が来なくなった世界で、私は滅んだ桜に思いを馳せた。
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