いちご狩りに逝きましょう

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いちご狩りに逝きましょう

「そうだ、今年はまだいちご狩りに行ってなかったわね」  そもそも妻のあの一言がいけなかった。  あれさえ無ければ、私たち家族はあんなを抱えないで済んだ、いたって普通の、穏やかな日々を過ごしていたはずなんだ。  それがあの「せっかくの休みなんだし天気も良いんだから、家族でいちご狩りに行きましょう」なんていう妻の思いつきのせいで、私は愛娘の愛梨寿(ありす)を乗せ車を出すことになった。  その先に恐ろしい真実が待っているとも知らずに。  娘の愛梨寿はまだ1歳半、歩くのも覚束ない。最近はいちごをみて、ごっ、ごっ、と話すようになったくらいだ。私は愛梨寿をチャイルドシートにしっかり装着させながら、改めてその愛らしい顔を舐めるように眺めた。 「愛梨寿ちゃん、いないいない、ばあ!」  にやり。  愛梨寿はどちらかというと普通の子どものようにぎゃはは、と笑うことは少ない。いつも落ち着いた表情でクールに微笑むのだ、それはまるで全てを察しているかのように。  また頭も良い。お座りが出来るようになるやいなや、もう喋り始めたのだ。どこかを指さしては何か文章らしき言葉を発するのだが、残念ながらそれが何を意味しているのかはわからない。実は愛梨寿は特殊な能力を持っていて、本当は全て分かっているのにわざと子どものふりをしているんじゃないか、なんて妄想を妻に話したら、この親バカが、と鼻で笑われた。 「ねえ、突っ立ってないで荷物運んでよ」  はいはいすんません、と反射的に言葉を発しながら、玄関に出されたお出かけ用のキャンプチェアーを車に運ぶ。妻には頭が上がらない、尻に敷かれるというよりは踏み潰されている毎日だが、それはそれでいい。 「よーし、出発しんこー!」  妻のテンションがいつになく高い。  車に揺られながらも窓の外を眺め、どこか落ち着きがない。 「あー、楽しみ! 私ね、時々自分がいちごの国の王女様なんじゃないかと思うことがあるの」 「へえ、どんな時?」 「昔っからいちごが好きだったでしょ? 洋服とかバッグとかいちごじゃないといや! ってよく母さん困らせてたんだって。幼稚園の運動会でもね、自分の組の絵を取りに行くっていう種目があったの。私メロン組だったのに、どうしてもいちごが良い! っていちごを取ろうとしたもんだから運動会がパニックになったんだって」  うちの妻は前から言い出したら引っ込まない性格だった。どこか引っ込み思案の私にどういう訳か向こうからアプローチされ、気づけば交際が始まっていた。それなりに美人で定評のある妻との交際を断る理由もなく、結局流されるままに今に至る。なぜ妻は私を選んだのか、友人にはこう言っていたそうだ。 「だってかっこいい人ってすぐ浮気するから、信じられないでしょ?」  これが事実なのか冗談なのかはまだ確認出来ていない。 「ねえいちごあるある言っていい?」 「いいよ」 「あのね、いちごって1月から5月が旬なんだって。いち()()だけに」  実はそれ知っていた。  夜中に隠れて見ているアイドル動画のうち、いちご好きの誰かが言っていた。 「僕も知ってるあるよ」 「え〜、どうせ有名なやつでしょ」 「どうかな、ネット情報だからな。一つ目はね」  馬鹿にしておいて食いつきようがすごい。 「いちごは果物と思われているけど、実は……」 「ヤサイ! なんだよね、メロンやスイカもね、常識だよね」 「お、やるね。じゃあ次」  負けず嫌いの妻の眉に力が入り始めた。 「僕らが食べているいちごの実はじつは果実じゃなくて……」 「はいはい! えーとあれは確か、果実じゃなくて……何かの何かだったよね」 「そう。茎の先の花托(かたく)と呼ばれる——」 「そうそう! 茎なんだよね、知ってる知ってる」  何でたかがいちごでこんなにむきになるのか。とそんな気持ちは口が裂けても言えない。 「じゃあ次ね」 「いいよ」 「いちごのブランドで有名な『あまおう』。実は甘い王様と思われているけど本当の由来は?」  妻が黙った。 「え、うそ。甘い王様だと思ってた。『甘く食べよう』の略?」 「ぶー」 「なにそれ『かい』?」 「残念でした」  徐々に妻が苛立っていくのがわかった。 「ちょっと、何でそうやってもったいぶるわけ? 早く教えてよ」  こうなるとたちが悪い、早く教えよう。 「『かい、るい、おきい、まい』の頭文字を取って名付けたらしいよ」  へえ、とつまらなそうな相槌を打ちながら、あなた最近夜遅くネット見てるもんね、と負け惜しみを呟いた。 「じゃあ私も。いくよ? いちごとレモン。ビタミンCが多いのはどっち?」  どっちって、普通その質問だったらレモンは不正解になるだろう。でもここは慎重に選ばなければならない。勝負に勝って、人間として負けるということだけは避けたい。人間は、負けるとわかっていても、答えなければならない選択肢がある。 「どうだろ、レモン?」  妻は嬉しそうになった。 「残念! そう思うでしょ? でもねえいちごの方が多いんだって。レモンって実はビタミンCそんなに多くないらしいよ」  ふう危ない、正解だった。これでいちご、なんて正解しようものなら、後がどうなるか分かったもんじゃない。  私はカッチ、カッチとウインカーを出して、目的のいちご園へ曲がった。 「あれ、人がいない」  いつもは休日なら人でごった返しのいちご園が、閑散としていた。とりあえず私は駐車場に車を停めたが、他に停めている車は一台もなかった。 「うそー、かなりショック」  入り口には「長らく大変お世話になりました」から始まる、いちご園の閉鎖を告げる張り紙があった。私は昨年ここに来た時のことをふと思い出した。 「そう言えばここのばあちゃん、今年で終わりかもって言ってたよね」 「でもさ、毎年そんなこと言ってなんだかんだでここまで来たじゃん。ついにもう駄目だったんかな」  ビニルハウスを覗き込んでみると、中はまるで廃墟のように寂れていて、ただ剥き出しになった土が雑多に広がっていた。 「帰ろうか」  妻が力なく頷いた。がっかり具合が凄まじい、こういう時は何も言わないにこしたことはない。ちょうど愛梨寿もチャイルドシートですやすや眠っていたので起こさずに済んだ、これでよかったのかもしれない。  帰りの車は言いようのない沈黙で満たされていた。さてこの空気、どうするか。このままだと無気力な妻が機能停止に陥り、食事、洗濯、愛梨寿の世話、その全てを自分がすることになる。下手すればそれは翌日まで残ることもある。できれば帰るまでに少しでも機嫌を取り戻して欲しい、どこかスイーツのお店でもないか? マッサージでもいいんだけど? 何とか活路を見出そうと必死で町の風景を睨んでいた私は、とある看板を見つけた。 「あれ、『いちご狩りこちら』って看板がある。こんなところにあったっけ?」  むっく、と起き上がると、突然妻の目が輝いた。 「ほんと?」 「うん、行ってみようか」  妻の返事を待つまでもなく、私は入ったことのない細い道へ曲がった。車二台ぎりぎりの道をくねくね進み、急な坂を登る。そのまま10分ほど進んだだろうか、やがて視界が開けると遠くにビニルハウスが目に入って来た。 「ねえ、あそこじゃない?」  妻の声に元気が戻って来た、よかったよかった。と思うにはまだ早かった。 「そうだね、看板がついてる。えーと……」  目を凝らすとそこには一文字ずつ看板が貼ってあった。  その文字を読んでみた。 「……ち……狩り?」  おそらく元々「い」だったのだろう。ところどころ看板が落ちて、どうも縁起が悪そうな表示になっている。 「やってるんだよね?」  妻のその質問とも独り言ともとれる言葉に私は返す言葉がなかった。
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