74人が本棚に入れています
本棚に追加
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってください! お、俺、あなたの事知りません!」
裕次郎という男の肩に手をやり、体から遠ざける。改めて顔を見ると、どことなく伊那村先輩を思い起こすが、やはり違う男だった。声が違う。背の高さも、髪の色も、目の色も……それに、先輩はメガネをかけてない。コンタクトを入れているということはずっと前から分かっていた。
「これから知って? 俺……もう無理、限界。」
そう言って、再び抱きしめられたその男に、今度は抵抗しなかった。男物の香水の香りが微かにする……。男の人にこんなふうに抱きしめられるなんて……初めてだ。目を瞑り、もう、忘れかけてた先輩の姿を思い起こす。あの頃は、ずっと先輩にこんな風に抱き締められたかった……。
「キスしていい?」
男の言葉に何も言えなかった。初めて会った男……。警戒して逃げ出してもいいはずなのに、男の真剣な雰囲気が俺を止まらせていた。でも、キス? 初めて会った男と? 10分もしないうちに?
俺が何も言えないでいるうちに、顔を両手で持ち上げられ、傾けた男の顔が近づいてきた。目を瞑る……。人生初めてのキスは、優しく触れるだけのキスだった。
「やっと……追いついた。」
そう言って男は俺の顔を片手で胸元に押し付け、もう片方で俺の背中を引き寄せた。男の香水と体臭が混ざり合い鼻に入ってくる。嫌な香りではない……。次第に鼓動が速くなってきた……。男の鼓動も俺以上に速い。
『嘘でも何でもいいや……。』
誰かから真剣に求められるなんて初めてだ。好きじゃない男とキスをすることに抵抗がなかったことは、自分でも信じられないが嫌じゃない……。いつか、こんな経験をしたいと心の奥底で思っていた。今まではそれが伊那村先輩だっただけ。本当は……俺は……誰でも良かったのかも知れない。
「ね、この後時間大丈夫?」
体をそっと引き離して、俺の顔を覗き込むようにして話しかけられた。
「……。」
何と言ったらいいか分からなかった。
「ちょっとだけ話をしない?」
「……ええ。」
裕次郎という男がどうして俺を知っているのか興味があった。そこは知りたい。このままにはしたくなかった。
「ここは寒いから……いこ。夕飯食べた?」
「はい。」
「……残念。じゃコンビニで何か買ってこ。」
手を掴まれて歩き始めた。この人の家に行くのか? どこなんだろう……。
駅前までタクシーを使い、コンビニに寄った後で連れてこられたのは、小さなビジネスホテルだった。
最初のコメントを投稿しよう!