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プロローグ(真人)
「先輩! ……伊那村先輩!」
ちょうど校門に向かって歩いている先輩を見つけて声をかけた。さっきまで大勢の人に囲まれていたのに1人だ。親御さんが待っている様子もない……ラッキーだ。今日で会えるのは最後。先輩は県外の大学に進学が決まったことが分かっている。……チャンスは今日だけ。
「なに?」
卒業証書が収められたケースを片手に、伊那村先輩が振り返った。栗色の髪。太陽の光にキラキラ輝いてとても綺麗だ……。でも制服のブレザーのボタンが全てなくなって、前がだらしなく開いていた。
「ちょっとお話したいことがあって……。少しお時間いただけますか?」
ここではマズイ。いくらなんでも。
「いいよ。このままカラオケ行くとこだし。」
「こっちに……。」
校舎脇の人気のない場所まで誘導して、先輩に向き直った。急に心臓が早鐘を打ち始めた。3年生が登校しなくなってから、ずっと考えていた。この気持ちを伝えたい。できればこれからも会いたい……。
「あの、俺、先輩の事好きなんです。付き合ってもらえませんか?」
俯きたい気持ちを奮い立たせて先輩を見つめた。先輩が驚いた顔をしている……当たり前だ。今までに接点はなかった。入学式の日に転んだ俺を助けてくれた……その一回だけ。多分先輩は忘れている。しかも俺は男だ。先輩の噂はたくさん聞いたけど、どれも相手は女の子とだった。
「名前は?」
「……まこと……。」
先輩の優しそうな表情を見ただけで分かる。俺、振られるんだ。逃げ出したい足に力を入れてその場に留まったが、我慢出来ずに俯いた。伊那村先輩の深緑色の卒業証書のケースが目に入る。沢山の書き込みがある。ハートマークもたくさん付いている。「好き」「愛してる!」の文字……。たくさんの名前。女の子の……名前……。俺はその時、初めて女に生まれたかった、と思った。
「まこと、ごめんな。」
頭に先輩の手が落ちてきた。
「俺、男か女かなんて気にしちゃいないんだけどさ……。」
先輩の言葉に顔を上げる。
「俺、追いかけたいタイプなんだよね。最近わかった。だから、今まで長続きしなかったんだ。」
悪戯っぽい笑顔で言葉を続ける先輩の顔から目が離せなかった。初めて見る表情……。初めて向けられた……笑顔。
「でも、ありがとう。……嬉しいよ。」
そういうと徐に顔を寄せて、頬にキスしてきた。涙が溢れてくる。泣きたいわけじゃないのに……。左目から一粒涙が流れた。
「泣かないで……。」
右手でそっと頬を撫でられた。初めて触れられた先輩の指は長くて……温かかった。
「そうだ。これ貰って。要らなければ捨ててもいいから。」
頬を撫でた右手でズボンを探り、小さなものが左手に持たされた。さっき一緒に取れちゃったんだ、と先輩は笑顔を見せた。
「やっぱり……交換。じゃ、行くね。」
左手が引っ張られる感触があって驚いているうちに、先輩は踵を返して歩き始めた。振り返らず歩いて行く先輩の後ろ姿を見つめる。涙が止まらなかった。姿が見えなくなって、左手を開いてみた。
それは、ブレザーの袖口のボタンだった。
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