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遠くまで続く白い砂浜はゴミなど一切なく島をぐるりと囲んでいる。最高の透明度を誇る海は今日も晴れ渡った青空と同じく青く輝いておりこの地に初めて訪れた人間は誰もが言葉を失う程の美しい景色だ。
何もかもが太陽の光によって煌いた世界はまるで異世界へとやって来たような感覚に陥らせ眠ることすら惜しませるような場所であった。
南半球の海の中に浮かぶ小さな島はバカンスとしてやって来る観光客によって成り立っていた。
大掛かりなリゾート開発は行わずに自然を残したその島は決して便利な交通機関があるワケでも食べたい食事が何でも手に入るワケでもない不便な観光地ではあったがその島の魅力に観光客は何度も足を運ぶようになる。
年中暑い気候と美しい珊瑚礁に囲まれた島にはダイビングを楽しむ観光客が多い。初心者からプロ、中でもほとんどの女性客がクチコミや紹介で訪れる日本人が経営するマリンショップが在った。それは観光客だけではなく島民にとっても最も有名な店の一つ。
Marin shop ps.mermaid ―
決して大きくは無いログハウスはビーチに面して広いウッドデッキが備え付けられいくつかパラソルを立てた丸テーブルとプラスチックの寝椅子が並べられている。
デッキに面した一面ガラス張りの壁に格子枠の大きなガラスドアが設置され中にはよく見かける南国の花をあしらったタオルやビーチサンダルを初め、サーフボードをデザインしたキーホルダーや置物がひしめき合うように並べられていた。
天井を高めに取った店内の壁に掛けられたサーフボードには鮮やかな色でプリントされた海洋生物の絵やハイビスカスの絵が在り大きく手書きの値札が貼り付けられている。
ガラスドアの取っ手に引っ掛けられたプレートにはCLOSEの字が書かれていたが太陽はまだ真上に在り閉店時間にはまだ早過ぎた。
頑丈で風合いの出た濃い色の木の床には転々と黒い染みが出来ており所々白い砂がくっついてそれが足跡なのが分かる。
海から出たばかりの濡れた体から滴る雫が商品にかかることを気にも掛けずに店内を闊歩する彼を咎めたことはない。
日に焼けた素肌が濡れていない時間の方が少ない彼は肌を乾かすことを極端に嫌うから。
腕や背中にも付いた砂が肌を撫でる手によってぱらぱらと床に落ちていく。
肌に食い込むタイトな水着は黒の生地に数本のラインが入っており今年の夏の為にプレゼントしてやった物だ。
物欲の乏しい彼だったが自分がプレゼントする物は何でも喜んで受け取った。
細い手首に付けられた耐水性に優れたごついデザインの腕時計。鎖骨の浮き出たデコルテに光る天然石を使った手作りのネックレス。細くしなやかな筋肉を付け引き締まった足首にも同じように手作りのアクセサリーを付けていた。
彼が常に身につけている物はたったそれだけ。それ以上は水中では邪魔だから。
くちゅくちゅと粘着音を響かせながら口腔を舌で舐めまわしてやると閉じられた瞼が痙攣した。
伸びた睫は長く黒い。それと同じ漆黒の髪は濡れており一層艶を帯びて美しかった。
「んっ…んんっ…」
片膝を曲げてベンチの座面に付き、向かいの相手の首に両腕を回して圧し掛かる。
こんがりと日焼けをし、濡れたその体は薄く華奢であった。肩幅はあるが脂肪が付きにくい体質なのだろう。毎日泳ぐことで筋肉は付いていたが決して筋肉質な体とは呼べない細い線をしていた。
対称的に圧し掛かられた方、ベンチに座っている男は肘までまくられた袖から覗く腕はくっきりと盛り上がった筋肉によって立派な丘と谷が出来ており半分までしか上げられていないファスナーから覗く胸元にも女性のそれとは違うが筋肉の谷間がしっかりと出来ていた。
襟足を伸ばした髪はダークブラウンに染められており髪質は柔らかい。彼はキスをしながらその触り心地の良い髪に指を絡めるのが好きだった。
舌を引き抜かれて息を吸おうと少しだけ顔を離して相手を見下ろす。
閉じられていた瞼がゆっくりと開かれると吸い込まれそうな深みを感じさせるくっきりとした二重瞼の碧眼と目が合った。
すっとした筋の通った鼻はあまり大きくなく、薄く開かれた唇は薄い。綺麗に歯列の整った白い歯と鋭角な顎を持った小さな顔は幼さを残していて十代の青年にさえ見える程だ。
血管の浮き出た大きな手で彼の頬から耳元を撫でてやると気持ち良さそうに眼を閉じて掌に顔を摺り寄せてきた。
その仕草は主人だけに懐く毛並みの良い猫を思わせて男は満足そうに微笑んだ。
彼とは違うブラウンの瞳を持つ男は男女関係無く振り返ってしまうような堀の深い男前な顔立ちだった。
作業中だけに掛ける縁のない眼鏡が筋肉質な体を持ちながらもインテリなイメージを持たせて一層魅力的である。
「もっとするか?」
男がふっと意味深な笑みを浮かべながら腰に添えていた手の親指だけを水着に引っ掛けた。
その仕草に男が意図とすることに気付き赤面する彼。けれど拒むことなどしないと男は分かっている。
「して、くれるの?」
「真人が可愛くねだったらな」
真人(まなと)と呼ばれた彼は恥かしそうに頬を赤くした。
「そうやっていっつも葭弥は俺に言わせるんだから…」
回していた腕を緩めて肩に両手を添えると少しだけ体を離す。
葭弥(よしや)と呼ばれた男は首を傾げて真人の顔を覗きこむ。催促するその仕草に真人は呆れたように溜息を零した。
下半身に集中しつつある熱を感じながら真人がその言葉を言おうとした時、背後から店の入り口ドアが叩かれる音が聞こえた。
「オイ。居るんだろ?ヨシヤ。客だぞ」
聞き慣れたガイドの声に葭弥は悪態を付いた。
「クローズって出してんだろうが」
真人は苦笑しながら葭弥から離れた。
「仕事だからね」
焦げた後が転々と残る木で出来た大きな作業台には様々なシルバー細工のネックレスや天然石などアクセサリーの部品が広げられておりそれらに紛れて置かれた煙草のハードケースを葭弥は手に取り表の店の方へと戻って行った。
ビーチに面する店の入り口側を表とすると二人が居たのはレジから繋がる裏の作業場だった。
手作りの棚に几帳面に整頓された瓶詰めにされた様々な色の天然石や小さな金属の部品に壁に打ち込まれた釘に垂れる革紐やシルバーのチェーン達。
このマリンショップの店長・葛桐葭弥(くずきりよしや)は自身がデザインするアクセサリーを店頭に並べていた。
そのデザインや繊細な作りは彼の見た目のイメージからはあまり想像が付かない程の芸術的センスを感じさせて最近ではインターネットなどで海外からの購入者も居る程だ。
それらの道具と一緒に壁に飾られたいくつものサーフボードは年季が入っていたがどれも綺麗に磨かれていた。葭弥のもう一つの顔は世界トップレベルのサーファー。年間を通してコンディションの良い波が打ち寄せるこの島にはプロのサーファーも多く在住していたが彼らと肩を並べる程の実力を持っていた。
アメリカ人の母親を持つ彼は生まれはアメリカで育ちは日本であったが二年前にこの島へと真人と共にやって来た。
新作のネックレスに使うのだろうか?小さな穴の開けられたこの島の海と同じ色の青い天然石を真人は指先で摘まんで見上げた。
「マナ。仕事だ」
ドアは取り付けられていない店と作業場を繋ぐ敷居にはのれんが掛けられていてそれを分けて顔を覗かせた葭弥が店側を顎で示した。
「分かった」
石を元の場所に戻すと真人はベンチから立ち上がり店へと出て行った。
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