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「時々ってどれくらい?毎年何人かはいるって事ですか?」
「うん、毎年って区切りはここには無いけどポツポツとね、まあ、すぐに帰った方がいいんだけど、そうもいかないからここにいるんだよな、うちに来る?」
「はあ……」
よもやの自宅ご招待だ。
どうしようかと迷った。
しかし出来れば電話を借りたいとは思う。
実はもう大会に戻って走る気は完全に失せていた。マラソンとは、ひたすら続く自分との戦いないのだ。モチベーションが下がれば走る意味を失う。走る意味が無ければ苦しいだけで楽しくも何ともない。競技に殉じているのでは無いのだから気が向いたらやめてもいい。
うん。
いい。
やめる。
「じゃあ……悪いけど少しだけお邪魔してもいいですか?」
「ようこそ」と男が笑った。
少し砕けた男の破顔は、歳上だと思った第一印象より若く見えた。意外と同じ年くらいか歳上でも20代前半だと思う、それなのに「こっちだ」と手を差し出した。
手を引いてもらう必要は無いと思う。
足は未だ堅固だし、疲れは無いのだ。
「あの……俺は本当に体調には問題は無いんです、走ろうと思えば走れるけどそんな気を無くしただけなんです」
「それは見ればわかるけど、これ以上迷っても困るだろ?」
「迷いませんよ」
見渡す限り、目の届く範囲が全部海と空と海岸と草地なのだ。例え200メートル離れても見えるくらい広いのだ。走って来た道も見える。
迷子もクソも無い。
「いいから、手を出して」
「いや…あの…」
「いいから、いいから」と手を取りに来るから仕方なく男の手を握ると……何なんだ。
結構強引に手を繋ごうとしたくせに「ふ〜ん」と物珍しそうに足の先から頭の先まで検分して来る。
「何ですか」
「いや、素直で可愛いなと思ってさ、学生?何歳?」
「学生で二十歳です、あなたは?俺と同じくらいに見えますけど?」
まだ十代の突っ張りが抜け切れていない俺は、素直とか可愛いと言われて少しムッとしたのだと思う、少し剣のある口調になってしまった。
しかし何も気にならなかったみたいだ。
「俺は遥果、遥かに果実の果」……と、あんまり必要とは思えない漢字の説明をいれて何「君は?」と聞いた。
「俺は…」
勿論すぐに答えようとした。
一瞬で帰るつもりだが一応こうして世話になってる、名前くらいは名乗るのが当たり前なんだけど、何故かすぐに出て来ない。
マラソン走って迷子なんて馬鹿だなって思うけど、動揺している自覚は無かった。自分の名前が何だったかなんて考えたのは人生初だ。
「名前……は……えと…」
「あれ?言いたく無い?それとも無くした?」
「無くすって何ですか、そうだ、三橋です、三橋達也です、大学の2年です」
「達也?普通の名前だな」
「普通で悪かったですね、そっちこそ女みたいじゃ無いですか、遥果って苗字?名前?」
「え?」と不意の質問に驚いたように言葉を詰まらせた若い男は「う〜ん」と顔を傾けた。
超短期の健忘症って移るのかな?暫く考えて、どうやら諦めた。
「多分名前」
「……多分?」
「ああ、俺さ、実は自分が誰かって記憶が無いんだ、笑かすだろ?」
「……はあ…」
こんな時、大人としてどんな風に答えたらいいんだろうと悩んでみる。「それは大変ですね?」
それとも「痛み入ります」?
「ご不自由は無いのですか?」
軽い調子で「記憶が無い」なんて人生に関わるような重大な事を、会って間もない俺に丸投げされても真っ当な返事は返せない。
「ここはとても綺麗な所ですね」と関係ない事を持ち出して誤魔化した。
すると「君の目にはどう写ってるんだろうね」と謎の返答だ。
確かに地元に住んでいるのならそこにある景色は当たり前なのはわかる。高校の修学旅行で沖縄に行った時にも、目を見張る美しい海を前にした地元の人は「いつも通りだ」と笑ってた。
沖縄の海はコバルトブルーだったけどここは透明なのに白が混ざったみたいな青だ。
これはこれでちょっとした観光名所になりそうだなって思う。
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