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「あれ?ここ?」
ブラインドになっていたカーブを曲がったけど……そこにあると思い込んでいた日常はどこにも無い。あるのは、今までに見てきた海と草原と砂丘、その横の少し窪んだ草地にポツンと建つ一軒家だ。
何の匂いか…。
どこか懐かしい香木の香りに誘われて顔を上げると、細長い幹の先にたわわと成る黄色い花が咲いていた。
「あれはミモザだよ」
「ミモザ……」
知らない。
知らないけど道端に咲く雑草である麒麟草がでっかい木に成長したみたいだなって思った。
甘く優しい香りの中に混じって芳ばしい珈琲が薫っている。
「ここは?店ですか?」
「まあ、そんなもんかな」
そんなもんとは…。
ログハウスのような木の壁、入り口を塞ぐように立つミモザの他、建物を囲うように植えられた見栄えのいい木立にはクルクル畝る蔦やお洒落な寄生木が葉を付けてる。
看板は無いけどオーガニックを売り物にする喫茶店みたいな佇まいだ。
「いらっしゃい」と手招きされて、硝子の窓が付いた木のドアを潜ると小さなカウンターと四つ程のテーブルがあった。
「好きな場所に座って、何か飲む?」
「ええと……じゃあ珈琲を…」
そう言ってからハッとした、何気無く珈琲と言ったのは店に入る前から芳しい匂いが漂っていたからだ。しかし、よく考えたらマラソンは半ば以上走っているのだ。それなのに喉が渇いてないなんておかしい。
もうランナーズハイなのは間違い無いけど、体に水分が足りて無いのは間違いないと思う、変調を来す前に水を飲むのが先決だ。
「すいません、珈琲の前に水をいたたげると助かります」
「そうだね、すぐ用意するからその辺に座って待っててくれる?」
「はい」
まず電話を借りた方がいいかなって思うけど、困るのは友達の誰も電話番号も知らないって事だ。
つまりは迎えに来てくれと頼む相手がいないって事で、まだ会ったばかりの遥果にお金と……何か上着を借りたりしなきゃならないって事。
「一つずつだよな…」
水くれ、珈琲くれ、服貸してくれ、金貸してくれ。それらをサラリと頼むのはかなり難易度が高く、ただのスポーツイベントなのに結構な冒険してるって思う。
遥果って名前の男はカウンターの奥にあるらしいキッチンに入ってしまった。
ちょっと手持ち無沙汰なったから店の中をよく見てみたが、メニューらしき物は無いしレジも無ければ小さな表示すら無い。
本当に営業しているのかなって疑問はあるけど、4つあるテーブルには椅子が2脚ずつ向かい合い、一応だが店らしい形態に見える。
出口に近い窓際に座り、木枠の窓から外を見るとゆるゆると散歩している人が何人か見えた。
今まで生きてきた中で目的も無く歩くなんてした事ないけど気持ちはわかる。
空は青いし風は穏やかだし本当にいい所だ。
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