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ここはゆるやかな川の岸辺に建つ廃城。かつての住人が残したアンティークのソファーに腰かけて、無名の魔法使いはゆっくりとくつろいでいる。そばのテーブルには蜂蜜入りの紅茶が置かれ、花瓶には季節の花が生けられていた。先ほど町で買い求めて来たものだ。
「人間の嗜好品は悪くないな。本で読んだぞ、お前は、まだ蜂蜜は食べないほうがいい」
蜂蜜は、乳児ボツリヌス症を発症する危険があるので、おおむね一歳未満では摂取させないほうが良いとされている。
『だ、ぱ! あー』
鏡の中の赤子が意味のない言葉を口にする。
無名の魔法使いは苦笑した。
「お前にばかりかまけているほど暇じゃないんだがな。お前の姿を見るのが日課になってしまったよ」
部屋の扉から、白い霧が侵入してきた。やがてそれははっきりとした形をとり、フォ・ゴゥルが四本の脚を折ってかしこまる。
「首尾はどうだ?」
『はい。件の施設ですが、やはり封印が緩んでいました。一部のルートから人間が出入りし、ここ数年で死者も出ている模様です』
フォ・ゴゥルは、かつて無名の魔法使いが封印したはずの施設の調査から戻ってきたところだった。
「そうか。では封印を結びなおす必要があるな――本当は施設ごと撤去できれば良いのだが、周囲への影響を最小限にとどめてそれを行うには、今の私の力は小さすぎる」
人間と比べるべくもない魔力を持つ無名の魔法使いにさえ、実行できないことがあるのだった。
無名の魔法使いは指を鳴らし、鏡に映る赤子の姿を消した。
『また人間の赤ん坊を見ておいででしたか。ずいぶん健康的な肉づきになりましたね』
「そうでなくては困る」
休暇の中断を余儀なくされた無名の魔法使いは、不機嫌そうに呟いた。
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