episode 5. 閉ざされた森の塔

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 出来上がった試薬を布袋に詰めて、無名の魔法使いは森の塔を後にした。  この布袋には魔法がかかっていて、見た目の何倍もの体積を収納できる(どの程度かは製作した魔法使いの腕による)。人間世界では第二のポケット(セカンドポッケ)の名称で親しまれているようだ。  構想(アイデア)自体は旧時代のさらに紀元前までさかのぼるが、実用化したのは始まりの五人の魔法使いたちである。新時代の幕開け当初は、混乱の時代であると同時に、魔法の発展の時代でもあった。  無名の魔法使いは、医者たちがほんの少し目を離したすきに、治療薬と使用方法を置いて去った。その紙には、野バラと狐がデザインされた封蝋が押されていた。これが、“名前のない魔法使い”を示すメッセージである。  そうして、すべての人間と出会わずに試薬を配り終えた無名の魔法使いは、最後に旧ブルゴーニュ地方の孤児院に立ち寄った。  寺院で集会でもあったのか、この日は特ににぎやかだった。鐘楼から鐘の音が降り注ぐと、教会の扉からたくさんの人があふれ出てくる。そして庭では簡素なテントが立てられ、小さなバザーが開催されていた。  クッキーを売っているのは、孤児院で生活する孤児たちだった。その中に、ラッピングされたクッキーが入った小さなバスケットを持つ幼児を見つけ、口元をほころばせる。  無名の魔法使いは、ひとりの老紳士に化けて、その子どもの前に歩み寄った。 「坊や、クッキーをひとつくれるかな?」  声をかけると、幼児がじっと見上げて来た。  髪は木の皮のような深い褐色で、細身ではあったが健康的な肌の色をしていた。やはり目を引くのは鮮やかな緑の瞳で、まるで新緑を閉じ込めた宝石のように見える。 「おじーさん、クッキーたべるの?」 「そうだよ」 「クッキーおいしいよ」 「そうだね、ひとつくれるかな?」 「あのね、クッキーはあまいよ」 「……」  どうやら、売り買いするという概念(がいねん)を今一つ理解していないらしい。
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