episode 1. 赤子の泣き声

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 若々しい緑のぶどう畑の上を、風が(はし)る。遮るもののない広大な畑を自在に吹き抜ける風は、乾いた土の匂いがした。  その風に身をまかせ、小高い丘の上から一面のぶどう畑を見下ろす背の高い影。  無名の魔法使いは、青い空と緑の大地が見渡す限り視界を埋め尽くす光景に満足していた。ぶどう畑は人間の営みの一部。自然との共生を実現したそのやり方を、愛しいと思う。そう、どうせ研究するのなら、今年のワインの味や、来年の葡萄の品種を研究すればよいのだ。それはこの世界の秩序を損なわない。 (大地の香りはいいものだ。しばらくはこの地に留まるとしようか)  無名の魔法使いは、長い衣をはためかせ、ふわりと空へ舞い上がった。太陽の光をいっぱいに浴びた髪と瞳は、虹色のきらめきを振りまく。長いまつげが、白皙の面に影を落とした。  夢の中を行くように空を飛び、ぶどう畑、牧草地、民家、協会、小高い丘――そういったものを飛び越え、北に向かった。このあたりは、かつてブルゴーニュと呼ばれていた地域である。牧歌的美しさの中に、人間たちのつつましやかな暮らしがある。  無名の魔法使いは、森の小道に降り立った。適度に人の手が入った森には、地面にまでじゅうぶん太陽光が差し込み、空を見上げれば木々の新緑が、足元を見れば若い草葉が瑞々しい息吹を吹きかけてくる。木々の間を吹き抜けるそよ風を受けながら、少し歌を歌った。なんの歌かは分からない。記憶の井戸からふいに顔をのぞかせた旋律を、気の向くままに口ずさむ。  軽やかな足取りで新緑の森を進んでいた無名の魔法使いの耳に、遠くから弱々しい泣き声が届いた。人間の赤子のようだ。だが、親らしき人間の気配は感じない。 (さて、赤子がひとりなにをしていることやら)  気付けば、泣き声のほうに向かって足が進んでいた。
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