episode 11. 麦酒のゆうべ

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 無名の魔法使いは笑みを浮かべると、席から立ち上がった。 「いや、そろそろお(いとま)しようと思っていたところだよ。突然押し掛けたうえ長居してすまなかった」  妻はいえいえと手を振った。 「こちらこそ、主人の長話に付き合わせてしまってごめんなさい。話の合う人が見つかって、主人もご機嫌だわ」  リチャードも席から立ち上がった……若干ふらついていたが。 「そうだねぇ。楽しい時間はあっという間だ……マーサ、リザと一緒に先に夕飯を食べていてくれ。お客様のお見送りは私がするよ」  母子の視線に見送られながら、無名の魔法使いはリチャードと連れ立ってコテージから離れた。  夕日が海の端に沈もうとしている。  潮騒(しおさい)に満ちた空間にはほかに人影はなく、静かな夕暮れだった。 「良い出会いをありがとう、“名前のない魔法使い”。私にとっても娘にとっても、忘れられない一日になりそうです」  それは無名の魔法使いにとっても同様だった。人間との交流を有意義だと感じたことは、これまでに一度もなかった。  それ故に、言わなければならないことがあった。 「リチャード。お前の旧文明への並々ならぬ興味は理解したが、好奇心は猫を殺すという言葉を覚えておけ。お前が旧文明の深淵(しんえん)にたどりついたとき、私はお前の友ではいられなくなる」 「それは……どういう?」  無名の魔法使いは首を横に振った。それ以上は話せないという意思表示だ。 「お前が守るべきは妻と娘だ。それを肝に銘じておけ……お前の娘は幸せ者だ。やさしい父と母がいて、無条件に甘えることができるのだから」  夕焼けを浴びて赤紫に染まった無名の魔法使いの瞳と、リチャードの(いぶか)し気な褐色の瞳が一瞬だけ交差した。  無名の魔法使いはその視線を振りほどくと、一瞬にして姿を消した。  後には、海へと下る小道にひとり(たたず)むリチャードだけが残された。  移動用の魔法陣を使うことなく瞬間移動することは、人間の常識では考えられない離れ(わざ)だった。
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