episode 1. 赤子の泣き声

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 孤児院の中庭に降り立つ。子どもたちが遊具で遊び、その様子を見守る黒い衣服の職員たちがいる。その間をゆったりと歩いて、壁際に生える細い木の枝を一本拝借した。無名の魔法使いの手の中で、その枝はみるみる大きく伸び、葉を落とし、くるりと丸まって、木で編んだバスケットが出来上がった。指を鳴らすと、つぎはぎだらけの赤子のおくるみは、清潔な綿で出来たふわふわのタオルに変わった。  その一連の動作は衆目の中で行われたにも関わらず、誰も無名の魔法使いに注意を払っていなかった。ただ草木がそこにあるのが当然であるように、魔法使いの存在も当然のものとして受け入れられていた。言うまでもなく、これは人心を操って自分を関心の外に置くように仕向けたのである。  子どもたちのはしゃぐ声の中、無名の魔法使いは石の階段にバスケットを置き、その中に清潔なおくるみに包まれた赤子を入れた。 「あー」  赤子はあいかわらず大きな目で無名の魔法使いを見つめ、手に持ったシロツメクサを差し出そうとする。 「まだ持っていたのか。お前にやると言ったろう」  無名の魔法使いは苦笑すると、シロツメクサを受け取り、そっと布にかざした。するとシロツメクサの姿かたちは空中に溶け出し、一本の糸となって布に縫いつき、シロツメクサの刺繍ができあがった。  自分の周りで何が起こっているのか分からない赤子は相変わらず「あぁーうー」と意味の分からない声をもらし、無名の魔法使いはいささか呆れながら、ぽんぽんと赤子の腹をおくるみの上から叩いた。 「今日からここがお前の家だ、元気に育てよ。もし、お前が私の力を必要とする日が来れば、その時は再び相まみえよう」  無名の魔法使いは、赤子の右手を取った。手首から肘へといたる白くぷにぷにした腕に、魔力を送り込んだ時につけたが残っていた。人間の目には、赤っぽい(あざ)に見えるはずである。  無名の魔法使いは立ち上がった。そして誰にも気づかれることなく、つむじ風となってその場から消えた。  直後、今まで何もなかったところに赤子が捨てられていることに気付き、孤児院は騒然となった。
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