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無名の魔法使いは、両手の中に花を閉じ込めていた。そっと手を開くと、そこにあったのは二つ葉のシロツメクサ。
無名の魔法使いはやわらかに微笑みながら、それを少年に差し出した。
(お前にもらったものを、今、お前に返そう)
少年は何度か瞬きし、おずおずと両手を差し出した。その手の中に、二つ葉のシロツメクサを乗せる。
「お前の名前は、トレフル・ブラン。今日からお前は、無名の魔法使いの弟子たるトレフル・ブランだよ」
「トレフル・ブラン……?」
それがシロツメクサを指す言葉だと彼が知るのは、もう少し先の話になる。
「そうだ。私はお前に、食べるものと住むところと、新たな魔法を授けよう。お前は私のもとで、どうすれば幸福になれるのかを考え、それを実行しなさい」
そう、人間の幸福は他人から与えられるものではない。自分から掴みに行って、掴むもの。
少年の幸福のためにどうすればよいか。考えて、出した結論がこれだった。
少年の瞳が、不安と戸惑いに揺れた。
「じゃあ僕は、あなたのために何をすればいいの? どうすれば、あなたはずっとその名前で僕を呼んでくれるの?」
無名の魔法使いは、ゆるゆると首を振った。
「お前は私に何も与える必要はない。そして、ひとついいことを教えてやろう」
無名の魔法使いは言葉を区切り、腰をかがめて少年と視線をあわせた。
「その名を呼ぶものがいる限り、その名はお前のものだ。だから、お前はその名を呼んでくれるものをたくさん増やせばいいのだよ」
無名の魔法使いは、少年の髪に触れた。そこに、やさしい魔法の光は宿らない。無名の魔法使いは、秩序を生み出すことはできても、幸福を生み出すことはできない存在だった。
それを少し残念に思いながら、言葉を綴る。
「簡単なことだよ。まずは、お前が好もしく思うものたちに手紙を書けばいい。そして、新しい名前を教えてやるのだ。そうすれば、彼のものたちは新しい名前でお前を呼ぶだろう」
それから五年の日々が移ろうあいだに、少年の背は伸び、たくさんの魔法を覚えた。そして彼は何通もの手紙を書き、何通もの手紙を受け取った。手紙に記されたありきたりの文句が、「トレフル・ブランへ」というその一文が、少年にはなによりも誇らしいものだった。
嬉しそうに町へ手紙を出しに行く少年の背を頬杖をつきながら見送り、無名の魔法使いは微笑んだ。足元には、見事な毛並みの白い獣がうずくまっている。常にそばに付き従うそのものにさえ悟られぬよう、胸の中でひそかに願いを口にする。
我が弟子よ、人間たちよ。どうか真実の愛を手に、いつの日か我を滅ぼさんことを――。
<了>
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