episode 2. 魔法使いの日課

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episode 2. 魔法使いの日課

 ある日、フォ・ゴゥルが無名の魔法使いのもとに戻ると、その人は大きな岩に腰かけ、眼下の湖を面白そうに見つめていた。  フォ・ゴゥルも同じように湖を覗き込んでみた。すると、さざ波ひとつない鏡面のような水面に、ひとりの人間の赤子の姿が映し出されていた。 「見ろ、フォ・ゴゥル。あいつ、おもちゃの木をかじっているぞ」  不思議そうに無名の魔法使いが言うので、 『それはまぁ、人間の赤ん坊のことですから』 と答える。  ふぅんと、分かったような分からないような相槌を打ったその人は、右手に持った本をめくって「歯が生えてきたのかな?」と呟く。手にしているのは、どうやら育児書らしい。  その後も、そういうことが何度かあった。  ある時は、「あいつ、匍匐(ほふく)前進ができるようになったぞ」とその人が言うので、それは俗に言うハイハイではないか、と答える。するとまた育児書をめくって「なるほど。このみっともない格好も成長の過程か」と納得したように頷く。  ある時は、「聞いたか。あいつ、『ダ!』と喋ったぞ」と手を叩いて喜ぶ。喋ったというより発音できる音が増えただけでは――とフォ・ゴゥルは思ったが、フォ・ゴゥルが何か言うより早く「意味のある言葉を喋れるようになるのは、まだ先らしいな」と育児書をめくる。  フォ・ゴゥルは不思議に思ったので尋ねてみた。 「(あるじ)様。人間の赤ん坊は、それほどに面白いものですか?」  無名の魔法使いは笑みを浮かべ、 「あぁ、実に興味深い。あの死にかけの赤子が、この小指でちょいとつつけば吹き飛んでしまう弱い生き物が、毎日少しずついろんなことを覚えていく。飽きないよ」 と言って、最近すっかり愛読書になってしまった育児書を閉じた。  無名の魔法使いの日常は代わり映えしない。千年の昔から。  一度は核戦争で滅んだ人類の営みを再生し、同じ悲劇が繰り返されぬよう世界を管理する。核に依存した旧文明の在り方を破壊し、魔法という新秩序をもたらしたのが、無名の魔法使いという存在だ。唯一無二の、世界と同調(リンク)した存在。ゆえに、たったひとりきりの孤独な毎日を過ごしている。  そんな日々にもたらされた変化――人間の赤子の観察――が喜ばしいものかどうか、無名の魔法使いの一端末にすぎないフォ・ゴゥルには判断がつきかねた。それなのに、その人が楽しそうにのに気付くと、ついフォ・ゴゥルも一緒になって赤子の様子を観察してしまうのだ。
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