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第十三章 兼光
一方で河内にいた兼光は城にたてこもる行家軍を破ったものの行家には逃げられてしまった。
「行家は紀伊の方へ逃げたようです。」
「よし、今すぐ紀伊へ向けて出発するぞ。」
そのときだった。
「樋口様…」
ぼろぼろになった武士が向こうからやってきた。
「お前はたしか兼平の!」
武士は兼光の前へくるとふらふらの状態で馬から下りた。
「はい。今井様にお仕えする者です。」
武士は血が流れる腕を手で押さえた。
「大丈夫か?今すぐ手当てを」
兼光が武士に優しく声をかけすぐに休ませようと武士の肩に片手をかけた。
「今井様も殿ももうこの世にはおりません。お二人だけでなく海野様や他の家臣だって…」
武士は言った。
「なんだと?」
兼光は驚きのあまり武士から手を離した。
「…近江の粟津で、私が行った頃には殿と今井様はもう…せめて敵に取られる前にお二人の首を持って帰りたかったですが、敵がすぐそこにいたので」
武士は涙をぐっとこらえていた。
「早くお逃げください!もう京や近畿一帯は敵のものになっています。それがしはお二人のこととこのことを伝えたくてここに来たのです!」
武士はお辞儀をして嘆願した。
「…お前はまずけがの手当てを。誰かこの者に治療を」
兼光が言った。一人の家臣が武士の腕を引いて向こうへ連れて行こうとした。
「樋口様!」
武士が兼光の方を向いて呼びかけた。
「わざわざご苦労だった。しかし、私だけ助かる訳にはいかない。殿も弟もいない世に未練などないのだから。」
兼光は温かい笑みを武士に返した。
「これより私は京へ向かう。そして私はお前達を巻き添えにするつもりはない。よってこれで我が軍は解散だ。後はお前達の好きにしろ。」
兼光が家臣達の方を見て言った。
「そんな!我々もご一緒します!」
家臣達が口をそろえて言った。
「いや。もし殿へ忠誠心があるのなら生きて菩提を弔ってほしい。生きて決して殿が謀反人ではなかったことを後世の人々に伝えてくれ。それが私の願いだ。」
そう言って兼光は京の方へ馬を走らせた。京へ近づくにつれて兵は次々と減り気づいたら二十騎あまりになっていた。兼光はまっすぐ前を見ていた。すると向こうから何人かの武士が馬でやってきた。
(敵か?)
そう思って兼光は刀に手をかけた。
「兼光様!兼光様はいらっしゃるか?」
先頭にいた男がそう言って近づいてきた。兼光には一体誰だかわからなかった。
(敵?いや、違うな。あの家紋は…)
武士達の旗には見慣れない家紋があった。そうこう考えているうちに武士達が目の前で止まった。
「我らは武蔵七党の一つ、児玉党です。」
先頭の男が言った。児玉党とは武蔵(現在の東京都あたり)に割拠した武士団であった。
「児玉党だと?」
兼光は目を丸くした。
「兼光様、お知り合いですか?」
そばにいた家臣が兼光に聞いてきた。
「あぁ。私の母親は児玉党の人間だ。まぁ、だからといってこの者達に会ったことはなかったが」
そう言って兼光は男の方へむき直して
「私が樋口兼光だ。何か用か?」
と言った。
「おぉ。ご無事でよかった。せめて親戚であるあなたや弟君を助けたかった。でも弟君は死んだと聞いたからあなたをずっと探していたのだ。」
男は微笑んだ。男は毛むくじゃらで野蛮そうな感じがあったがどこか優しそうな笑顔をしていた。
「早速ですがお願いがあります。」
「なんだ?」
「今すぐ義経軍に投降してください。」
兼光達は黙った。
「なぜだ?私を差し出して恩賞でも欲しいのか?」
兼光が聞き返した。
「まさか!私はあなたを助けるために言っているのです!」
「助けるだと?」
「はい。あなたが降伏したら我ら全員があなたの助命を嘆願します!それに木曽殿が死んだ今、あなたが助かる見込みは十分にあります。」
男は必死にそう言った。
(嘘をついているようには見えないな。でも)
「悪いが、私は助かりたいとは思わない。それに助命嘆願がそう上手くいくとは思えない。私は今から敵のところで死ににいくのだ。」
兼光はきっぱりとそう言って児玉党の武士達をよけて前へ進もうとした。
「命を無駄になさるな。」
男が言った。兼光は立ち止まった。
「あなたは非常に優秀な方だ。あなたのような方はこれからの武家政権のためにも生きていなければならない。それにきっと木曽殿だってあなたが生きることを望んでおられる。」
兼光の脳裏には最後に見た義仲の顔が浮かんだ。
「主君と命運を共にするのも我々武士の務めだが、主君の思いに応えるのも務めです。」
すると兼光の頭にどこからか義仲と兼平の声が聞こえてきた。
「兼光、生きろ。生きてくれ。」
「兄上、死んではなりません。どうか我らの分まで生きてください。」
兼光は目を閉じた。
「…わかった。その話に乗ろう。」
兼光は言った。
「ではまずは我らの陣へ。」
男はうれしそうな顔をしながら言った。
「義経のところではないのか?」
「都に行くと大騒ぎになってしまいます。ひとまずうちで休んでください。そして我らはすぐに義経殿を呼びますから。」
こうして兼光達は近くにある児玉党の陣に滞在した。児玉党の知らせを受けて義経と範頼が訪ねてきたのは数日後であった。
「なるほど。」
「はい!どうか兼光様をお助けください。全ては木曽殿に従ったまででこの方に罪はないのです。」
児玉党の男は義経と範頼の二人に必死に頭を下げた。
「樋口兼光。私もうわさは聞いている。木曽殿とは兄弟も同然でよくできる家臣だとか。」
範頼が言った。
「兄上、別に樋口殿を助けてもいいと私は考えます。」
義経が範頼に言った。
「しかし我らだけでは樋口殿の処分を判断できない。とにかく法皇様の元へ連れていかないと。」
範頼が言った。
「でも法皇様や公卿達はなにせひどい目に遭わされたから木曽殿やその家臣を許さないかもしれない。だからいっそのこと私達がかくまってあげてもいいのでは?」
「馬鹿をいうな。ばれたら我々だって命が危ない。」
義経の言うことに範頼は否定した。
「では、早速明日にでも都につれていくとしよう。」
範頼は男に向かってそう言った。
「なぜ…私を助けようとするのです?」
兼光が範頼と義経をまっすぐ見て聞いた。
「…あなたのような有能な方を失うのはとても惜しい。それにこれ以上人が死ぬところを見たくはないのです。」
義経は兼光に微笑んでそう答えた。
次の日、兼光は義経達と共に入京した。兼光は今回の戦ですっかりやつれてしまい、通りすがりの人は彼が兼光だとは気づかなかった。兼光はひとまず義経の屋敷に入ることになった。
「私と兄上が法皇様や公卿達を説得します。それまではここにいてください。」
そう兼光に告げて義経と範頼の二人は御所へと向かった。
「樋口殿は死罪に決まっておる。あの者は木曽殿と一緒に法皇様の住まいを焼いたのだぞ?」
案の定、公卿達は兼光の助命に反対だった。
「しかし、それはあくまで木曽殿が首謀者となって行ったこと。樋口殿は家臣としてそれに従っただけなのです。」
義経が言った。
「それに樋口殿は自ら我らの元に出頭してきました。反省する意志は十分にあります。」
範頼も続けて進言した。
「しかしな、法皇様を初め、後宮の女子達もみな木曽殿やその一派を恨んでおるのだ。悪いが、助けてやることはできない。」
公卿の一人がそう言った。結局義経と範頼がどんなに説得しても兼光の助命は許されなかった。
一方で兼光は義経の屋敷で義仲や兼平、海野幸親らの首と対面した。変わり果てた姿に何も言葉が出てこなかった。兼光は義仲と兼平の頭をそっとなでた。そのとき、義経達が帰ってきた。それでも兼光はなでるのをやめなかった。
「申し訳ありません。」
義経のその一言で兼光は自分の運命を悟った。
「…小さいとき」
兼光は頭をなでながら切り出した。
「二人はこんなふうに私が頭をなでるととても喜んでくれた。なのに今は全く笑ってくれない。」
兼光の目には涙があった。義経達は黙っていた。
「この二人以上に私を慕ってくれた人間はいない。だから私には辛いのだ。たった一人で生きながらえるのは。」
兼光は鼻声でそう言った。
「…最後にお願いがあります。」
兼光は切り出した。
「なんなりと。」
義経が答えた。
「私の首はどうか殿の隣に置いてください。もうそれで私は十分です。」
兼光が義経と範頼の方を見てそう言った。兼光の顔は不思議とすっきりしていた。義経達はその顔のすっきりとした様子に思わず見入ってしまった。
処刑場へ向かう間、兼光はずっと幼いときのことを思い出していた。
『駒王丸(義仲の幼名)様!駒王丸様!』
幼い頃の兼光がそう呼びながら屋敷中を探し回っていた。すると向こうから幼い兼平と巴がやってきた。
『兄上、こっちにもいません。』
『若様はどちらに行かれたのかしら?』
三人は途方にくれた。すると庭の茂みの方からすすり泣く声が聞こえてきた。三人は顔を見合わせて声の聞こえてくる方へ行った。声は庭の躑躅(ツツジ)の後ろから聞こえてくる。
『駒王丸様』
そう兼光が呼んで後ろにまわると案の定、駒王丸がいた。駒王丸は三人に気づくとすぐに泣くのを止めた。
『けがでもなさったのですか?』
兼平が聞いた。駒王丸は首を横に振る。
『戻りましょう。みな心配しています。』
兼光がそう言って駒王丸の手をとった。駒王丸はその手を振り放した。
『行かない。どうせ私は拾い子だから。』
駒王丸は下を向きながら言った。
『え?』
『知っているのだ。私は父上の本当の子供ではなくて、本当の親は赤子の頃に死んだって。』
駒王丸は投げやりになりながらそう言った。
『えぇ、そうですよ。それがどうかしましたか?』
兼光が言った。
『ここは私の居場所ではなかったのだ。だってこの家とは血のつながりなどないのだから。』
駒王丸の目からはこらえていたはずの涙があふれていた。
『…例え血のつながりがなくてもあなたはこの家の大事な若様です。』
兼光は言った。
『そうですよ。駒王丸様は私の友達です!』
兼平が言った。
『そうですよ!ここは若の家です。』
今度は巴が言った。
『血など関係ありません!ここが若の居場所です!そして私達はいつでもあなたの味方です!』
兼光はそう言って駒王丸に手を差し出した。駒王丸はすぐに袖で涙を拭いてその手をとった。
『あぁ!』
兼光にはその日のことが鮮明に蘇っていた。
(結局、あの何気ない日々が一番幸せだったのだ。)
兼光はそう思いながら処刑場の露に消えた。
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