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第二十九章 新月と飛翔の過去
この頃の九条兼実は上述の通り丹後局や土御門通親と対立しており、また後鳥羽天皇とも上手くはいっていなかったので朝廷は敵だらけであった。
(…最近、土御門が私と対立する貴族達を頻繁に屋敷に招きいれていると聞く。そしてもう一つ気がかりなのは家族と共に上洛してくる鎌倉殿…嫡男である頼家殿と一緒ならわかるがなぜ奥方や娘まで?)
「…長年の勘か…力を欲する者が取る行動はなんとなく読める…」
そう兼実はつぶやくと筆と紙を取り出した。
武蔵の寺では新月が剣を握って素振りをしていた。そして新月は剣を後ろの木に向かって投げた。すると飛翔がその木から降りてきた。飛翔の手には新月が投げた剣が握られていた。
「全く危ないな。気がついたのなら普通に声をかければいいものを。」
飛翔がそう言って剣を新月に投げ渡した。
「まとわりつくハエ一匹でも排除する。それが俺のやり方だ。」
新月が冷たく言った。
「もしかして蒼華は中か?」
飛翔が辺りをきょろきょろした。
「…ハエの気配を感じたからな。中に避難させた。」
新月が飛翔をにらみつけて言った。
「やだなぁ。俺はもうあのお坊ちゃんに何もしねぇよ。今日はちょっと伝言しに来たんだよ。」
飛翔はやれやれといった顔をした。
「伝言?」
新月の眉間がぴくっと動いた。その時、飛翔の目の色が真面目なものに変わった。
「…まぁ、伝言というよりは命令だな」
「…それは一体どんな命令だ?」
「…関白様からの命令だ。お前、及び蒼華は九条様の密偵となり、すぐに京に来てほしいとのことだ。」
飛翔は言った。
「悪いがそれは無理な話だ。」
新月がきっぱりと答えた。
「別に裏切ったことなど九条様は気にしていないさ。むしろ今回のお姫様の一件でお前と再会したことを話したらとても喜んでいらした。もちろん今回の任務をお前が拾った蒼華が果たしたことも。」
「そうだとしてもなぜ蒼華まで?」
「言っておくけどそれは俺が謀ったことじゃない。それは九条様の命だ。俺は蒼華の手柄を話してやっただけさ。」
飛翔が微笑みながら言った。
「断る。」
新月が飛翔をにらんだ。
「そんなに簡単に断れるかな?」
「何?」
「まぁ、たとえ断っても九条様は何も言わないだろう。お前にはとても甘いから。でも俺はどうかな?」
飛翔がふっと笑った。
「俺はお前を諦められない。お前をおびき出すためにまたあのお坊ちゃんを連れ去るかもよ?」
飛翔が言った。新月はそれを聞いた瞬間、剣の鞘を抜いて飛翔に矛先を向けた。
「…もう一度そんなことしてみろ。お前の命はない。」
新月が飛翔に言った。飛翔はそれを聞いてため息をついた。
「わからないな。お前はどうしてそこまであの坊ちゃんを大事にするんだ?昔のお前はもっと違った。初めて会ったときのお前はもっと冷酷で慈悲の心なんか全くなかった。」
「…お前には関係ないことだ。」
そう新月は吐き捨てると剣を鞘の中にしまい寺の中へと戻って行った。飛翔はしばらく寺の方を見つめていた。
「…何だよ。やはりあの男がいいのか…次郎…」
飛翔はそう静かにつぶやくとそのまま去って行った。
新月は自分の部屋に戻ると黙って考えこんだ。そして先ほど飛翔に言われたことを思い出し今までの自分の過去を頭の中で反芻していた。
(…俺には家族の記憶がほとんどない。ただ家族のことで覚えているのは家が貧しかったことと父親が暴力を振るってきたこと、そして…)
新月は今まで閉めていた過去の扉を開いた。
新月の家はとても貧しい農民の家で、それでいて貧しさからなのか愛情というものが全く存在しない家であった。そして新月が五歳の時村は不作と伝染病に襲われた。ある日、珍しく母親が新月に優しく話しかけてきた。何を言われたかはもう記憶にはないが、新月は母親に手を引かれて家を出た。しばらく来るとそこは家から少し離れた川であった。
「母ちゃん、今から魚でもとるの?」
幼い新月は口を開いた。
「…川の方が怪しまれずに死ねるからよ」
そう言うと母親は新月の腕を強く引っ張り川の中へと投げ飛ばした。新月が苦しそうに起き上がると母親は新月の頭を川の中へと押さえつけた。
「悪いね。でもあんたを処分しないと私達は食べていけない…」
母親はそう言った。新月は息もできず苦しくもがいた。しかしどんなに抵抗しても大人の力は振りほどけなかった。新月は手足をばたばたさせた。そしてもがいていた手が母親の体のどこかを強くひっかいたのか母親は思わず新月から手を離した。新月はその隙に走って逃げた。
(母ちゃんがおれを殺そうとした!)
新月は一目散に家とは反対の方へと逃げた。そして当てもなく野山を歩いた。
(家にはもう帰れない。見つかったらきっと殺される。でももう頼れる人なんか…)
新月は実の親に殺されそうになったことに絶望した。そして空腹からその場に倒れた。
「おい、子供が死んでいるぞ!」
「いや、まだ息がある。」
「それにしても結構顔がいいな。こいつは高く売れそうだ。」
しばらくするとどこからかそんな声が聞こえた。目を覚ました新月は人買いに拾われ売られたことを知った。でも新月はがっかりなどしなかった。どんなにひどい扱いを受けても殺されるよりはましと思えたからであった。
「寒いな…」
ある日の夜、新月は小屋の中で冷気に震えた。売られた子供は商いの時間でないときは粗末な小屋に入れられた。寒さをしのぐのは着ている粗末な衣服のみであった。
「…なぁ、お前寒いのか?」
隣で寝ていた子供が新月に話しかけてきた。
「これ使えよ。人買いがもういらないって俺にくれたんだ。」
子供は粗末な麻布を新月に手渡した。
「へぇ。あいつらでも物をくれるんだな。」
「こう見えて俺、口だけ達者なんだよ。」
子供が笑った。
「俺は太郎っていうんだ。お前はなんて名前なんだ?」
「…名前なんてないよ。あんたとかお前ってしか呼ばれたことがないから。」
新月が答えた。
「じゃあ、お前、次郎な。あ、これ、俺の死んだ弟の名前。」
「…別にいらないよ。名前なんて。」
新月はそう言うとそのまま横になった。
「…次郎も親に捨てられたのか?」
太郎がそう聞いてきた。
「さぁな。」
新月はそう答えると寝返りを打って太郎に背中を向けた。それからというものの太郎は新月に話しかけてくるようになった。新月はその度に軽く流していた。そしてそれから一月ほどの時間が流れた。今日もまた商売のため新月と太郎は人買いによって縄につながれ連れ回された。
「お前達二人は良い顔をしているのになかなか売れねぇなぁ。でも、値段が高い分、長くいてくれる方がありがたいが。」
と人買いは言った。新月と太郎は黙って人買いについていった。
「おい、そこの者」
すると男がそう声をかけてきた。旅装束で良い着物を着ていた。
「お前は人買いだな?子供が欲しいのだが。」
「あぁ。で、どのガキがいい?」
男は人買いが連れてきた子供を見て考え込んだ。そのとき、新月と男の目が合った。
「決めたこいつにする。」
男は新月を指さした。
「あとこいつだ。」
今度は太郎を指さした。
「こいつらはけっこう高いぞ?」
「じゃあ、これでいいか?」
男は人買いに金が入った袋を手渡した。
「へぇ。まっ、これくらいなら十分だ。」
新月と太郎は見知らぬ男に買われた。
「お前達は下賤の子にしてはなかなかいい目をしていたからな。あの方の私兵にぴったりだ。」
男はそう言った。その男こそ九条兼実に仕えていた貴族の者であった。幼い新月と太郎は兼実所有の密偵となるべく勉学から体術まであらゆることを仕込まれた。
「しかし、九条様も変わっているよな。自分専用の密偵が欲しいからって捨て子の俺たちを拾ってくるなんて。」
ある日、太郎が新月に言った。
「…話す暇があったら黙って勉学に励んだらどうだ?」
新月はそのまま黙って書物を読み始めた。
「次郎。まだ勉強するのか?よく集中力が続くよな。」
とそんな新月を見て太郎は言った。
「…俺達には他に生きる道がない。おれは逆にどうしてお前がそんなに呑気なのかがわからない。」
新月は冷たく言った。
それからしばらくたった。二人は無事に一人前の密偵として認められ太郎は飛翔と次郎は新月と命名された。そして二人は仕事を与えられるようになりそれをどんどんとこなしていった。そしてあるとき、新月はこのところ力を見せ始めている武士の一族の一つ、源氏の元へと潜入することとなった。
「お前が新しく入った所従(下人)だな。」
「はい。」
新月は潜入先の武士に頭を下げた。
(たしかこの家の主人は堀親家とかいう源氏の棟梁に仕える武士…おれの役目は所従としてこの家に仕え、源氏の動向を探ることか…)
新月は表向きは家の雑事を完璧にこなし隙を見ては主人である堀親家を監視した。そんな日々を送っていたある日のことだった。
「わぁ!」
新月が庭の掃き掃除をしていると突然上の屋根から新月めがけて人が落ちてきた。新月の本来の実力ならばこれくらい避けられるが、下手に目立つのはやめたかったので結局新月は避けずに二人は覆い被さってそのまま地面に倒れた。
「いたた…」
落ちてきたのは男だった。身なりからしておそらく家来の武士であると新月は判断した。
「大丈夫か?」
男はすぐに上体を起こして下にいた新月に言った。
「いえ。そう言うあなた様こそお怪我はありませんか?」
新月は言った。
「あぁ、大丈夫だ。」
男はそう言って立ち上がった。
「痛…」
すると男は膝の所を押さえた。新月はすばやく男の着物をまくり上げて男の膝を見た。男の膝は擦りむいて血が出ていた。
「こっちに来てください。すぐに終わりますから。」
新月はそう言って男を縁側に座らせた。そして男の膝を水で洗い薬を塗って布を巻いた。
「悪いな。こんなことまで。」
治療が終わると男が言った。
「いえ、多少の傷でも膿んだら大変ですから。」
新月はそう答えた。
「いやぁ、屋根に登りたくて登ったら今度は降りるのに失敗して」
男は笑いながら言った。新月は頭を下げたまま男の話を聞いた。
「俺は堀親家様の家臣で藤内光澄っていうんだ。お前は?」
「…次郎と申します。」
「…そうか。」
「では。」
そのまま新月は去って行った。それが二人の出会いだった。
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