第三十章 月草の思い

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第三十章 月草の思い

 次の日、また堀親家の屋敷に潜入していた新月がいつものように屋敷の中を掃除していた。新月が床を拭いているとふと目の前から人の気配を感じたので新月は頭を上げた。するとそこにいたのは藤内だった。 「次郎とかいったな。今日は昨日のお礼に見せたいものがあるんだ。」 「は?」 新月は目を丸くした。 「ほら、行くぞ」 藤内は新月の腕を引いた。 「でも仕事が」 「そんなの私が後でいくらでも言い訳してやる。」 そう言って藤内は新月の腕を引いて駆け出した。藤内は新月の手を引いてどんどん走り、裏山まで来てやっと止まった。 「何です?こんな所まで」 新月は言った。 「いいから足下を見てみろ。月草(ツユクサのこと)が咲いている。」 そう言われて新月が下を見ると下には青々とした月草が咲いていた。 「この花は朝に咲くと昼にしぼむことが多い。でも今ここにある月草はみな朝から咲いているが真昼の今でも咲いている。すごいと思わないか?」 藤内が言った。 「…確かにすごいかもしれませんが、人に見せるほどのものではないでしょう。」 新月が冷たく言った。 「お前は素直なのだな。素直過ぎて逆に気持ちいい。」 藤内は笑った。 「でも、お前と月草は似ているよ。」 「え?」 「昨日のお前も月草と同じ。突然現れてすぐに手当てをしてそのまま去って行った。まるで昼にしぼむ月草みたいだ」 藤内は月草を摘むと新月の頬に当てて微笑んだ。 「お前、少しは笑った方がいいぞ。笑う方がきっと幸せになるし、それに私はお前の笑う顔が見てみたい。」 藤内はまた笑って言った。 (変な男…わざわざあのようなことでお礼をするなんて。しかもあんなよくある野花を見せてきて。それに笑顔が見てみたいだなんて親にも言われたことないのに。)  それからというもの藤内は毎日新月に話しかけるようになった。新月は最初は彼を苦手に思っていたが、彼の温かさに接するうちに不思議と彼との時間を厭わしく感じなくなった。 「木曽義仲様?」 「あぁ、私の恩人だ。あの方のおかげで今の私がいる。今はもう家臣ではないがいつかあの方の役にたって恩返しをしたいのだ。」 「ふん」 「随分と冷たい返事だな。お前にはいないのか?そういう相手。」 「いませんね。俺は自分にしか興味ないので。」 新月がそう答えると藤内はくすっと笑った。 「お前らしい返事だな。でもな、案外好きな相手がたくさんいるって楽しいものだぞ。」 「は?」 「私の好きなやつは木曽様と藤次(親家)様とあとは、仲の良い友達とそれとお前だ。」 藤内は新月を見て笑った。 「理解できませんね。」 新月は言った。 「何でだ?」 「おれは基本的に人を信用しません。たとえそれが家族でも。」 (そうだ。期待したって裏切られるかもしれないのに…) 新月はそのときふと自分を殺そうとした母親を思い出した。  それからしばらくたって新月は屋敷から少し離れた人気のない橋へと行った。するとそこには飛翔がいた。 「飛翔。話って何だ?」 新月が言った。 「実は九条様も俺もずっと気になっていたことがあるんだ。」 「何が?」 「ここ最近、お前から情報が伝えられてこない。前は毎日届いていたのに。」 新月は一瞬固まった。怠けていたつもりはなかったが、休憩中に藤内と過ごすようになっているうちに密偵の仕事をあまりしなくなっていた。 「別に。今のところ奴らに動きはなかった。それだけだ。」 新月は言った。 「…そうか。」 飛翔はふっと笑ってこう言った。 「まぁ、とにかくお前は降りることになった。」 「え…」 新月の胸がドクンと波打った。 「九条様の命令だよ。これ以上特に情報がないのならお前が潜入する意味がないし。」 「ま、待て!きっとそのうち動きが」 新月はなぜか焦っていた。 「わかっているよ。お前が仕事を怠るやつではないって。でもね、間者というものは本来長く潜入しないものなんだ。なんでだかわかるか?」 「…いや。」 「情が移るからさ。人間ってのはどんなに非情な奴でも人に望みを抱いてしまうことがある…」 そのとき新月の頭には藤内の笑顔が浮かんだ。 「別に情など…」 新月は拳を握った。 「わかっているさ。お前がそんな愚かな感情で動くはずがないことは。でも、念のためにね。」 飛翔は新月の顔を見ながら鋭い目で微笑んだ。 「早速だけど今日の暮れ六つにここで合流だ。上手く抜け出してよ。まっ、お前なら楽勝だろうけど。」 飛翔はそう言って去って行った。新月はしばらく黙ったままその場に立っていた。 (情?俺が?そんな訳ない。あんな奴に情なんか…) 新月は静かに歯ぎしりをたてた。  暮れ六つが近づくと庭を掃除していた新月は辺りを見回した。 (誰もいないな。それに今の季節なら直に日も沈み暗くなる。抜け出すなら今だ。) 新月は箒を置いて走った。そして塀を乗り越えようとすると誰かに腕を引っ張られた。新月がばっと振り向くとそこにいたのは藤内だった。 「やはりお前、ただ者ではなかったのだな。」 藤内が言った。すると新月がつかまれていた腕を乱暴に振りほどいた。 「…俺の正体がわかっていたのか?」 と新月は言った。 「…あぁ。なんとなく普通の所従には見えなかった。」 と藤内が静かに言った。 (一緒にいるうちに見抜かれていたんだ。くそ、この俺が油断するなんて…) 新月はそう思いながら下を向いた。 「次郎、俺につかないか?」 と藤内は言った。予想もしなかった言葉に新月は素早く頭を上げた。 「なんで…」 「お前は面白いしなかなか頭が切れる。ずっと欲しかったんだ。頼りになる相棒が。」 藤内は笑った。 「何を言っているんだ?俺はここに潜入していた敵なんだぞ?」 新月はわなわな震えた。 「…言ったであろう?私はお前が好きだと。」 と藤内は言った。新月は藤内をしばらく見つめていた。 (何なんだ。こいつは。どうしてこんなにも簡単に人に好きだと言える?苦手だ。こんなやつ。今まで周りにはいなかったから…でも) 「俺は」 新月が口を開いた。するとそのときだった。 「それはいけないな。」 新月が背後を振り向くとそこには侍女風の女がいた。すると女は静かに顔を上げてかつらをずらした。 「飛翔!」 新月が言った。 「実は俺も何日か前からずっと潜入していたんだ。お前を見張るために。そしたら驚いた。まさかお前が敵と通じているのだから。」 飛翔が藤内を見て言った。 「ねぇ、新月、裏切りは怖いよ?下手したら死罪かもしれない。」 飛翔はぞっとするような冷ややかな声で言った。 「でもわかっている。お前はだまされているだけなんだ。」 「…俺は」 「まぁでも」 そう言って飛翔は新月を手でどかすと藤内に近づいた。 「こいつが消えればお前も目が覚めるだろう」 そう言って飛翔は懐から苦無(クナイ)を取り出し瞬時にそれで藤内を刺そうとした。すると新月は片手でそれを止めた。 「何の真似だ?」 飛翔が言った。 「…悪い。」 新月が言った。 「何でだ?何でこんな奴を」 飛翔が新月をにらみつけた。 「今のお前は普通じゃない!いつものお前なら誰かに心を開いたりしないし、そんな感情的にもなったりしない!そもそもいつものお前なら潜入している俺に気づくはずだ!」 飛翔が熱くなりながら言った。 (わかっている。こんなの馬鹿げているって。でも) 新月は振り向いて藤内を見た。 (誰かを信じてみることはそんなにも愚かなことなのか?) 「…悪い。飛翔。俺はきっと愚かな感情で動いてしまう人間だったらしい。」 新月はそう言って微笑んだ。そう言われた飛翔はそのまま固まった。 「何だ?何の騒ぎだ?」 異変に気づかれたのか、向こうから声が聞こえてきた。 「ちっ」 飛翔は舌打ちをして塀に飛び乗った。 「新月、残念だよ。お前のことは気に入っていたのに。」 そう言って飛翔は去って行った。 「何かあったのですか?」 飛翔が去った後すぐに家臣の一人が新月と藤内のもとへやってきた。 「…いや、何でもないよ。」 藤内が答えた。そのまま家臣が去って行くと藤内は新月を見た。 「…本当に良かったのか?」 藤内は口を開いた。 「…はい。」 新月が答えた。 「…お前、名前は?次郎はきっと本名ではないのであろう?」 「…本名ですけど勝手につけられたというか…まぁとにかくおれは新月といいます。」 「新月か。名前に月が入っていて月草にそっくりなお前らしいな。」 そう言って藤内は笑った。  過去の記憶を思い出すと新月は蒼華達がいる所へと向かった。 (あのときと変わらない。俺はあの方が大事だ。そしてあの方が守ろうとしたあいつだって。それなのに…)
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