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第八章 桜の木
「えぇ!歌?歌を義高様に?」
次の日、梅が大きな声を出して驚いた。
「しぃ!声がでかい!」
一幡が片手の指先を口の所にもっていった。
「私、あの人…いえ、義高様と仲良くなりたいの。一応、夫婦になる訳だし…宮中では歌を送って思いを伝えるって聞いたから…」
「でもぉ、姫様、歌など詠んだことないでしょう?まぁ、私もだけど。」
梅は片手を頬のところにもっていって困ったそぶりをした。
「そうか。うーん、他のみんなは忙しそうだし、やはり自分で考えるしか…」
そのとき一幡の頭にはあふれるばかりに咲き誇る桜に暖かい春の日差し。そして冬の名残が残っているもののほんのりと春を感じさせる義高の手。それから三日三晩、一幡は必死で歌を考えた。
「春のもとほのかなる日に包まれり花の精が手をいかで忘らるる(春の下でほのかに暖かい日に包まれた。花の精の手をどうして忘れることができるか、いやできない)」
義高は幸氏を介して渡された文を読み上げた。文は牡丹色の薄様の紙で、薄い抹茶色の薄様が重ねられていた。そして文は桜の枝に結ばれており、黒方の香りがした。
「ふん、下手くそな歌だな。口では生意気なことを言っておきながらやることは年相応だ」
義高が文を見ながら笑った。
「でも、五つの少女の文にしてはなかなか上出来です。それに姫様の若への想いが伝わってきます。」
幸氏が言った。
「黒方の香り…深く懐かしい香り。なるほど。これで忘れられないことを表現したということか。」
義高がそっと文を顔に近づけて香りをかいだ。
「若は姫様をその、お好きではないのですか?」
幸氏が聞いた。
「さぁな。私に幼子に恋する趣味はないからな。」
義高がぶっきらぼうに答えた。
「義高様、幸氏」
望月重隆がやってきた。
「あぁ、重隆」
「若の部屋から楽しそうな声が聞こえてきたのですが、何かあったのですか?」
重隆は笑みを浮かべながら聞いた。
「重隆、実はかわいい幼子から文をもらったのだ。」
「かわいい幼子?」
重隆は誰を指しているか理解できなかった。
「大姫様のことですよ。」
幸氏が首をかしげている重隆に言った。
「あぁ、なるほど。」
重隆が流すような感じで言った。
「ところで、今は殿も平家と接戦を繰り広げているようです。」
重隆が真面目な顔でこう切り出した。
「あぁ。噂は聞いている。父上ならきっと見事な勝利ができるはずだ。それに源氏の勝利に貢献できるれば父上は鎌倉殿に許されるのだろう?」
「おや、人質だということを忘れていなかったようですね。」
重隆が言った。
「何がいいたい?」
義高が鋭い目つきで重隆を見た。
「色恋にうつつを抜かすのはかまいませんが、あなた様はあくまで人質。常に命の危険にあるということとあの娘とは一時的な関係だということを忘れてはなりません。」
「色恋などととんでもない。あんな生意気なガキを好きになる訳が」
「いいえ。恋心でなくても親しみを覚えてはなりません。例えお父上の罪が許され人質ではなくなっても、離縁される可能性は十分にあります。あの鎌倉殿が天下をとったその日にはあの娘も天下人の娘。きっと鎌倉殿はそれなりの家に嫁がせたくなるでしょう。」
義高も幸氏も黙って下を見た。
「どの道あなたとあの娘は一緒にはなれないのです。そのことをお忘れなきよう。」
重隆がそう言って頭を下げた。
「そんなこと、お前に言われなくてもわかっておる。」
義高は辛かった。自分が今命の危険にあること。もしかすると父、義仲や自分も少なくとも明日や来年には生きているかわからないこと。それは幼い義高にもなんとなく感じ取っていたことであった。
「とにかく、己の身をわきまえてください。」
重隆はぴしゃっと義高に言い放った。義高も幸氏も義高がただの婿ではなく、人質だということを十分にわかっていた。しかし、一幡と出会って楽しい思いをしたことでそのようなことはすっかり頭から消えていた。いや、消そうとしていた。しかし重隆に指摘されたことでまたその事実を思い出すはめになった。義高は何も出来ずにただ訪れる運命を待っている今の自分がとても惨めに感じた。
(未来の天下人の娘と滅びの危機にある家の嫡男。これからどうなろうと二人が完全に結ばれることはない。なんと世は残酷なことをまだ幼いお二人に突きつけるのか…)
重隆もまた内心義高と一幡の運命に同情していた。
「それで、あの人に渡してくれたのか?」
後日、縁側で一幡は幸氏とおしゃべりをしていた。
「はい。」
「で、その、あの人、なんといっていた?」
一幡はどきどきしながらそう聞いた。
「とても喜んでいましたよ。お二人はきっと相思相愛ですね。」
「…別に良い。お世辞など言わなくても。きっとあの人のことだから『下手くそな歌だな』とか言っていたのでしょう?」
一幡は義高のしゃべり口調の真似をした。
「そんなことないですよ。少なくとも私は良い歌だと思いました。例えば若を桜の精に例えるあたりとか」
「…お前は月の精だな」
「え?」
「お前はいつもあの人のことを一番に思っている。私達のことも陰から見守ってくれている。だから月。」
幸氏はその言葉に対してなぜか何も言えなかった。
「月に住む人はみんなきれいで汚れを知らないのでしょう?お前も同じ。まっすぐで心がきれいだと私は思う」
一幡は幸氏を無邪気に見つめて微笑んだ。
「幸氏殿」
向こうから義高付きの侍女、舞がやってきた。
「若がお呼びです」
舞が言った。
「あぁ、舞。今行く…では姫様、失礼します」
そう言って幸氏は立ち上がり、舞の後についていった。
日没になった。今夜は満月なのかいつもより夜が明るい。一幡は部屋で伸びをしていた。すると部屋の明かりがふっと消えた。一幡は少し怖くなった。
「ちょっと!誰かいないのか?誰か!」
一幡は大きな声を出した。それでも誰も来ない。目が慣れてくるとだんだんものが見えてくる。とにかく部屋を出て誰かに明かりをつけてもらおうと思い、一幡は立ち上がって部屋を出た。するとどこかから笛の音が聞こえてくる。その音があまりにも魅力的で荘厳な音だったので一幡は音のする方へ歩いた。音は外から聞こえた。外に出ると、まん丸の月が太陽に負けないくらいそれでも静かに輝いていた。夜風が吹いてくる。風のせいで桜の花びらがあたり一面に舞っている。笛は庭の桜の木の方から聞こえてくる。一幡は桜の木の下まで笛の音に引かれるように歩いて行った。輝く月はちょうど桜の木の真上にあった。しかし、音源となるものはない。一幡は立ち止まって笛の奥深い音にうっとりしていた。すると横からぎゅっと手を握られた。一幡は我に返って横を見た。
「お前が忘れられない手はこの手か?」
そこにいたのは義高だった。
「よ、義高様」
「あぁ、やっと名で呼んでくれたな。いつもはあなたとかあの人とか。私個人を呼んでくれなかった。」
「あ、あなただって。私を名前で呼んでくれない。」
「じゃあ、大姫。これで満足か?」
「ち、違う。私の名前は一幡です!」
「そうか。それは知らなかった。」
一幡は義高の方に体を向けた。
「明かりを消したのは義高様なのですか?」
「いや、そなたの侍女に頼んだ。そして幸氏が得意の笛を吹いてくれた。」
気づいたら笛の音は消えていた。
「あぁ、あの音、幸氏だったのですね。とても上手でした。」
「あぁ。幸氏はやらせればなんでも完璧にできる自慢の友なのだ。」
「…どうしてこのようなことを?」
一幡がそう聞くと義高と一幡は恥ずかしくなって下を見た。
「一幡、お前の和歌を詠んだ。下手な歌だったが、思いは伝わってきた。」
「もう!悪口ですか?」
一幡が顔を上げた。
「そなたは私を花の精だとか、手が忘れられないといったな?それは私も同じだ。」
義高の目が温かい目に変わった。
「え?」
「私だってあの日の牡丹色の少女が忘れられない。私よりも年下で小さい癖にものをはっきり言って小さな手なのに手は熱いくらいだった。でも私の冷たすぎる手にはこれがちょうどいい。」
義高が一幡の握った手を見つめて言った。
「一幡にとって私が花の精ならば私にとってのそなたは桜そのものだ。私はそなたという桜に引き寄せられた。正直言って幼子は嫌だが、まぁ、お前の相手をするのは悪くない」
義高は一幡を真っ直ぐ見つめた。その真っ直ぐな目に一幡は引き込まれそうだった。
「これでは、どっちが桜かわかりません。」
一幡はぼっそとつぶやいた。二人は自然と笑顔になり月夜の下見つめ合った。一方で笛を吹いていた幸氏は2人がいる桜の木の近くにある木に寄りかかっていた。幸氏は片手に高麗笛を握りながら静かに光る月を見上げた。
(幼い頃からまるで兄弟のように育ち、私はかつてあなたを友だと思っていた。でも大きくなって父上から言われた。義高様はお仕えすべき主だと。だから私は身分をわきまえ、以前のように接しなくなった。)
幸氏は静かに息を吐いた。
(それでも私はあなたが大事だ。たとえ友だと思えない日がきてもあなたへの思いは消えないから。だから今度は家臣としてあなたの幸せを願わなくてはならない。たとえこれからあなた様がどうなろうと)
その場にいた三人を照らした月は神々しくそしてどこか寂しそうに光っていた。
一方そのとき頼朝と政子は部屋でゆっくりとした時間を過ごしていた。頼朝は書物を読んでいる。
「殿、殿はいつまでここにいらっしゃるのですか?」
政子が聞いた。
「どういう意味だ?」
「他の源氏の者はみな戦に出ているのに殿はいつも屋敷にいらっしゃる。源氏の嫡男だというのに。」
政子がそう言うと頼朝が静かな笑みを浮かべた。
「私は戦が得意ではない。そっちの方に頭は不思議と働かないのだ。」
頼朝が書物を閉じた。
「…私の天下は必至だがそれには少し頭を働かせる必要がある。出る杭は打たれるようにむやみに表に出ては命取りだ。それならいっそこうして陰でじっとして邪魔者が消えるのを待っていた方がどんなに楽か…そうお前は思わないか?」
政子はぞくっとした。そのときの頼朝の顔は政子が今までで見た中で一番恐ろしく一番何をも恐れない顔だった。
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