序章 すべて忘れて

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 ささやく声は目眩がするほど甘く、頭がぼんやりとしてくる。 「どうしたらよいか、教えてやろう」  声がそっと続ける。 「私に、その身を捧げるのだ」  ぞわりと総毛立ち、一気に頭が覚醒した。  この声の主の言う事を聞いてはいけない。――逃げなければ。  再び駆け出そうと、石段を一段下りる。しかし、ひやりと冷たい手に後ろから首を掴まれ、そのまま強い力で締め付けられた。 「う……っ」  長い爪が、紗栄の首に食い込む。なんとか指を外そうと抵抗するが、微動だにしない。焦るばかりで、息はどんどん苦しくなっていく。  このまま、殺されてしまうのだろうか。  体から力が抜け、だらりと腕が下がる。意識が白く霞み、途切れそうになった。 「――そこでなにをしている」  どこからか、声が聞こえた。紗栄の首を掴んでいた手が少し緩む。僅かに喉を通った空気に、紗栄は激しく咳き込んだ。 「愚劣な妖ごときが、誰の許可を得てこの地に踏み入った」  ゆっくりと、声が近づいてくる。紗栄は息苦しさに涙を滲ませながら、石段の上へ顔を向けた。  歪んだ視界に映るのは、一つの人影。――さっきの青年だ。 「言葉を解す頭があるのなら、霊格の差くらいわかるだろう。今すぐ、その汚れた手を離せ」 「ひっ……」  小さな悲鳴と共に、緩く紗栄の首を掴んでいた手が離れた。とたんに崩れ落ち、地面に膝をつく。 「う、ぎゃああああ!」  次の瞬間、響いた悲鳴に弾かれたように顔を上げる。  そこには、人とも獣ともつかない、異形のものが青白い炎に包まれて叫び声を上げていた。
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