夕暮れ、教室にて

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・・・  気が付くと、全身の感覚が鈍く、身動きが取れなかった。目も開けられないため、暗闇の中でどうすることもできない。  突然、右腕全体が今までに感じたことのない鋭い痛みに襲われ、思わず声が出そうになったが、ほとんど擦れた声しかでなかった。  一体ここはどこなのか。  言いようのない不安に駆られていると、遠くの方から微かな話声が聞こえてきた。  意識をそちらの方へと集中させる。 「気の毒にねえ。Rさん」 「本当にねえ。一緒にいた恋人は、跡形もなく吹き飛んじゃったらしいわ」 「そんな……。Rさんも、命は助かっても右腕が無くなっちゃあねえ」 「それも気の毒だけど、それのおかげで前線に戻る必要はないから。ある意味よかったのかも知れないわ」 「確かにねえ」  一体誰の会話なのだろうか。  しかし、それどころではない。俺の名前が呼ばれ、その恋人が吹き飛んだ?  そんな。そんなそんなそんなそんな……。  そんなことがあってたまるか‼︎‼︎‼︎  どうして彼女が。  あんなにも優しい彼女が。  家族を守るためにと、女性ながら自ら兵士になった彼女が。  敵を前にしても引き金を引けなかった彼女が。  命を落としたというのか。  本当に、死んでしまったというのか。  俺が、傍に居たのに。  傍に居たのに、守ってやれなかったのか。  嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。嘘だ嘘だ‼︎‼︎  現実を理解することを頭が拒絶している。  暗闇の中に彼女の笑顔が、困った顔がいくつも浮かんでくる。  声だって、頭の中でそのまま響かせることができるというのに。  彼女はもう、この世界に居ないのか。  そう心の中でつぶやくと、不思議とそのことが抗いようのない現実となって胸の中で落ち着いた。  しかし、それと同時に俺は、滂沱として涙を流しながら、叫んだ。  彼女を失った悲しみが、後悔が、寂しさがすべて声となって俺の喉から、自分でも聞いたことのないような声量で響き渡る。 「Rさん‼気が付いたんですか⁉」  ばたばたと何人かの人が慌てて俺の下へと駆け寄ってきたようだったが、俺はただただ声を上げて泣き続けた。  ようやく落ち着いたころ、全身の感覚と共に瞼の感覚が戻ってきたので、ゆっくりと目を開くとそこは見知らぬ白い天井だった。  俺が横たわるベッドの脇には看護師と思わしき女性が3人と、白衣を身に着け、胸に赤十字の記章を付けた中年の医師が立っていた。 「Rさん。今がどういう状況か、分かりますか」  医師が落ち着きのある低い声で語りかけてくる。 「……いえ。私は一体」 「落ち着いて聞いてください。あなたは前線付近の拠点である廃校した初等学校の警備巡回中に、敵のゲリラによる襲撃を受けて受傷したため、ここに運ばれました」  なんということか。あの学校は前線において物資救援や後方支援のために重要な拠点として自軍が占拠し、周囲の警戒も強めていたはずだ。どうして敵のゲリラがそんな重要な拠点まで達し得たのか。 「続けてよろしいですか?」  呆然としていた俺に、医師が淡々と続きを促してくる。 「……どうぞ」 「はい。敵は数名で物資救援の隙をついて拠点付近に侵入、窓の外から手榴弾を拠点に向けて投げ込みました。おそらくはスパイの類の介入もあったのでしょう」 「そんな馬鹿な……」 「そして、その手榴弾があなたの居た部屋で爆発し、あなたは受傷したというわけです」 「事の顛末は分かりました。それで、彼女は」  医師は俺の言葉を聞くと、非常に悲痛な表情をした後、一度目をつぶって何かを決心するように言葉を紡いだ。 「……一緒にいらっしゃった女性は、あなたの発見とほぼ同時に、死亡が確認されました」 「そうですか」  彼女はもう、この世にいない。  戦争は俺から二度も家族を奪っていった。  この世界はくそったれだ。  生きようとあがく者や、人の幸せを願う者ばかりが惨く、平然と死ぬ。  そして、あろうことか他人を踏みにじり陥れようという人間ばかりがのさばっている。  彼女が死ななくてはならなかった理由は、一体なんだというんだ。  神なんて、いない。  そう心の中でつぶやいた瞬間、俺の中で何か大事なものを繋いでいた細い糸が、ぷっつりと切れてしまったことがはっきりと感じ取れた。 「それから、あなたの右腕ですが――」 「少し、行ってきます」 「え?」  医師の話を遮り、ベッドから体を起こす。右腕の方を見ると上腕の半分から先が無く、その断端には白い包帯が幾重にもなって巻かれていた。 「だ、駄目ですよ!まだ寝ていないと」  医師の脇の若い看護師が慌てて俺の動きを止めようと動き出す。さきほどの会話の主の片方と同じ声だった。  看護師の伸ばす手を左手で振り払い、俺はベッドから飛び降りた。  体全体が鈍い痛みを伴っているが、かまうものか。腕に繋がれた点滴を引きちぎり、走り出す。後ろから大声で呼び止められたが、無視してただ出口を目指して走る。  玄関ホールに何とかたどり着き、外に出て傍に止めてあった車から運転手を引きはがし、無理やり発進させる。左手だけで運転するのは初めてだったので少し戸惑ったが、何とか車は動いてくれた。  駐車場から大通りに出る際にサイドミラー越しに先ほどの医師と看護師が走ってくるのが見えたが、車には追いつけるはずもなく、一瞬で小さくなってしまった。
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