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・・・
あれは池の氷が溶け切らなくて、手の霜焼けがひどく痛む、厳しい冬の日だった。
辺りが薄暗くなり始める教室で、黙々と黒板に書かれた文字を書き取っていると、廊下からやけに焦った友人が走り込んできたのを、今でもはっきりと覚えている。
だけれど、その後のことは実はあまり覚えていない。
上手く働いてくれない虚な頭のまま、通りを掛けていくと、いつの間にか俺は自宅に着いていて。
ただ、呆然と燃え盛る塊を眺めていた。
手の霜焼けが熱を帯びて、ひどく痛んでいた。
・・・
家を失って、家族がみんな亡くなって、俺は偶然学校に居残りで指導を受けていたためにそれを免れた。
今となってしまえば、それだけの話だ。
思えば、彼女と俺が腐れ縁とも言えるほどに一緒にいるようになったのも、あの出来事が原因なのだろう。
親戚の家に引き取られ、転校してきた俺は周りの誰とも関わろうとしなかった。そんな俺に、しつこくただ一人話しかけ続けてきたのが彼女だ。
本当におせっかいで、我が強くて、それでいて、優しい。
それから現在に至るまで、彼女は俺に構い続けたし、時が流れるうちにいつの間にか俺も彼女が隣にいることを、ひどく幸せに感じるようになっていた。
そんな彼女のおかげで友達も何人かでき、楽しい幼少時代を過ごせた。彼女には感謝してもしきれない。
回想を止めて彼女の方を見ると、彼女の瞳は潤んでいて、今にも大粒の涙が目から零れてしまいそうだった。少し赤くなった鼻をすすりながら、彼女は言う。
「……ごめんね。嫌なことを思い出させて」
「いいよ。もうずいぶんも前の事だし。それに」
「それに?」
「悪い記憶だけじゃない」
酒に酔った父からよく暴力を受けていた俺にとって、家が燃えた時に失ったものは大して大事だと感じれなかった。ただ住んでいた場所と、暴力的な父と不干渉な母親を失っただけに過ぎなかった。
俺にとっては、むしろ、その出来事で得た物の方が大きかった。
彼女に出会ったことで、俺は誰かに愛される喜びを知った。失っていた感情も、初めて出会う感情も、全て彼女が俺に教えてくれた。
そんなことは、本人に対しては口が裂けても言えないが。
しばらくの間、静寂が教室の中を支配した。黒板の上にかかった時計に目をやると、時計は壊れてしまっていて、表面のガラスにはいくつもヒビが入っており、針は動いていなかった。
そのせいか、今この瞬間だけが世界から切り離されていて、俺ら二人しかこの時間を生きてはいないのではないかという気がした。
彼女はずっと俯いたままで、いつものような忙しなさは全く窺えない。
どうしたら、彼女は元気を取り戻してくれるだろうか。俺はただ彼女に笑っていて欲しいだけなのに。考えもまとまらないが、何か彼女に言葉を掛けなければいけない気がして、見切り発車で口を開く。
「落ち込むことないだろ」
「だって……」
「俺はもう気にしてないよ」
そういってそっと彼女の頭を撫でる。
泣き虫な彼女は昔からこうするとすぐに泣き止んだ。亜麻色の髪は触れた瞬間から柔らかく俺の指を包み込み、その一本一本がさらさらと流れるのが見える。
ふわっと桃の花のような甘い香りが鼻に広がっていく。
どうして、いつも彼女からはこんなにも華やいだ香りがするのだろう。
彼女は不安気な微妙な表情のまま、俺の顔をおずおずと窺う。俺が笑顔を作ると、彼女もようやく少しだけ微笑んだ。
「……頭撫でてもらうの、いつぶりだろ」
「最近は泣かなかったもんな」
「それはねえ。私ももう大人だし」
「大人が頭撫でられて泣き止むかね」
「う、うるさいな!」
彼女がもうっと言って俺の背中を思いきり掌で叩いた。突然の衝撃に思わず変な声が出てしまう。これは綺麗に紅葉型の痣が背中に出来ていそうだ。
そんなことをして、危ないという自覚はあるのだろうか。
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