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娘が風邪をひいた、と言っている。
私は体温計を使うように促したが、どうも、そうではないらしい。頭がガンガン痛み、お腹がねじれるように痛いと娘は言ってやまない。
まだ、物心もつく前の、眼球にいれても痛くないような愛娘がウィルスに犯されてるとなれば由々しき事態だ。
私は即急に妻に相談しようとしたが、思い出せば、妻は今日、同窓と会うとかで家にはいなかった。
次に救急箱の中を見たが、中身はスカンピン、あるのは痒み止めだけだった、痒み止めでどうしろと?
私は受話器を取り、119。しかし、救急車は市内で起きた大火事によりすべて出払っているらしい。
ニュースをつけると、ここから十キロほど離れた繁華街で大火事が起き、大学病院等は大混乱だということが報道されていた。
現在は夜十一時半、近くの診療所はもう、閉まっているだろうし、開いていたとしても、火事の手当てでそれどころではないだろう。
昨今の特命救急は平時から人手不足が嘆かれている、火事など大量の負傷者が出るような災害が起これば、医療前線はいとも容易く破綻するのは明白。
最後の手段と、私は二十四時間営業のドラッグストアに風邪薬を買いに行くことにした。急いで車に乗り込み、エンジンをかける。
自宅はいかんせん、不便なところにあり、近隣にコンビニなどは皆無、ドラッグストアまでは四半刻ばかりかかる。
コンビニでも風邪薬は手に入るが、ここは薬剤師がいるドラッグストアに行くべきだ、それに、どちらも距離はさして変わらん。
その間、憎むべきウィルスに魘されている娘を家に置いてけぼりは、気が引けたが。
車に乗せ、家周辺のガタガタ道を走るとなると、激しい揺れで娘の容態が悪化しても困る。
娘のためを思えば致し方なく、私は車を飛ばした。
火事の影響で、空が薄ぼんやりと赤く光っていた。
ドラッグストアは真っ暗闇の中、毒々しいまでに煌々と光を発していて、私は砂漠でオアシスを見つけたような喜びに身をやつす。
ドラッグストアの駐車場に車を止め、滑るように降車する、私は店員に娘の症状を伝えた、店員は新人の薬剤師らしく、病勢と年齢に合った風邪薬を選ぶのに四苦八苦した。
その間にも娘はウィルスと熱戦を繰り広げている、私は大学で行動心理学の講師をしているが、この店員は非常に意志薄弱と見た。
二十分ほどして、ようやく店員は風邪薬を選び終わり、私はその風邪薬を手に、レジへと向かった。
風邪薬の値段は千二百円と消費税、がま口を開ける、その時私は深刻なことに気がついた、がま口の中には十円玉が三枚と、一円玉が七枚それだけだった。
金が足りない。
店員は訝しんだように、私に金を出すよう、急かしている。今からお金を取りに戻って、また、ドラッグストアに来て、風邪薬を買うとなれば、追加で一時間半もかかることになる。
そんな遅い時間まで、娘に苦渋な思いをさせてられる猶予はない、その時の私は娘の風邪と言う非常事態にどうにかしていた。
私は、お金がないので後で払う、と口早に言い放ち、風邪薬を引ったくって、逃げるように車に乗り込み、疾風の如く家を目指した。
私は窃盗をした、だが、前科など娘の平穏と引き換えになるのなら、安い対価だった。今思えば、狂っていたとしか言いようがない。
四半刻、焦りと動悸を感じつつ、車を飛ばし、家路を急いだ。
私は家につき、眠ぼけまなこの娘に風邪薬を与えた。その後、娘は安堵したように、寝入ってしまった。
程なくして、家の呼び鈴が鳴る。私は覚悟して玄関を開けると、二人の警察官が私を取り押さえ、留置所に連れて行かれた。
どうやら、店員が私の車のナンバープレートを警察に通報したらしく、現行犯逮捕だとのこと。
留置所は寒々しく、私は娘が心配でならなかった。
夜が明ける頃、妻が娘をおぶって、留置所に来た、その時不意に違和感、妻は高慢ちきで、いつも香水の匂いをプンプンさせているのだが、その日は香水とは違う、妙な匂いがした。
妻はやってくるや否や、離婚届を叩きつけ、窃盗を犯すような夫は要らないときっぱり、言った。
そんなぁ、私は娘のためを思ってやったのに……しかし、どんな理由があろうとも、私は犯罪をしでかしたのだ、そう言われても仕方ない。
元より、妻は他に男がいるらしく、私と別れたがっていた、私はそんな妻の訴えを無下にしてきたのだが、今は状況が違う、民事ともなれば金がかかり、犯罪を犯した私が負けて、慰謝料やらなんやらを支払わなくてはならない。
しかし、それ以上に私は、娘を失うのが苦痛でならなかった。仕事漬けの私より、娘は妻に懐いている、恐らく、離婚となれば娘は妻の連れ子となるだろう。
……しかし、私は腹を決め、渋々離婚を了承した。全ては、犯罪を犯した私の責任だ、私が悪いのだ。
娘も犯罪を犯した父親がいると分かれば、学校で虐められるかもしれない。
その後、ドラッグストアの店長がやってきた。私は淡々と経緯を語った、すると、店長さんは私に同情してくれたのか示談を成立させてくれた。
曰く、警察に通報したのは深夜シフトの店員らしく、私の事情を聞き、そう言うことならと店長さんは届け出を取り下げてくれた。
私はなんのお咎めもなく釈放されてしまった。
刑に処されなかったのは、不幸中の幸だが、私は離婚届に印を押してしまった身、もう少し考えてから、離婚を了承すればよかったと、後悔し、その後何日かは声涙倶に下った。
一頻り涙を流した私は、フと豁然的に、一つの考えが舞い込んできた。全ては妻が私と離婚するために仕組んだことなのではないか? と。
被害妄想甚だしいのかもしれんが、救急箱の中とがま口の中が伽藍堂だったことが、思い立ったに至る、着想だ。
大体、娘は風邪を引いたと言っていたが、それも、自己申告に過ぎない、娘は訳もわからず、頭が痛いだの、お腹が痛いだの、言うように妻に唆されたのかもしれない。
まだ、年端もいかない娘、騙すのは容易だ。
私はこう考えた。
妻は娘に風邪をひいたと言わせて、私に風邪薬を買いに行かせるようにし、金がないことに気がついた私が盗みを働くように仕向けた。それを理由に離婚するために、そして、妻はその際に大きな犯罪を犯した。
それは先の大火事である、救急車が呼べなかったのは、火事で病院のキャパがオーバーしていたからで、つまり、放火した犯人は妻であると、私は予想した。
その証拠に、留置所に来た妻の妙な匂い、アレは恐らく、油ぽく焦げ臭い匂いだった。
「どうですかね」
「ありがとうございます、一応、あなたの奥さんを調べてみますね、まったく、犯人の目星がつかなかったので、助かりました」
「元ですがね……ハハ」
放火の犯人はまだ、捕まっていないらしく、私は警察で妻のことについて、事情聴取を受け、思うところを語った。
そして、私の予想は見事的中、数日後のニュースで、先の大火事の犯人は妻であると報道された。
逮捕には私の証言が大きく貢献したことは間違いなしであろう。
○
これで娘と二人で暮らせる。
私の学んできた学問を利用するのは憚られたが、ここまで、他人が思ったように動くと、愉悦すら感じる。妻は私の暗示した通り火事を起こした。
しかし、もう三文芝居は演じたくないな、アホを装うのも難しい、私は計画書を燃やしながら、口角を上げた。
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