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〈第十一話 事変〉
妻の葬儀を終えた翌日、千景は一日ぶりの
朝議へ向かうため、恭史郎の城の廊下を
歩いていた。
「来栖様!」
後ろからかけられた声に振り向くと、
そこには朱楽が心配そうな面持ちで
立っていた。
「大丈夫でございますか……?」
それを聞いた千景ははっとした。
昨日届いた、朱楽からの文に返事を書くことをすっかり忘れていたのだ。
「すまない、朱楽…。
文の返事を忘れておった……。」
すると朱楽は慌てて首を振り、
「いえ、そんな!
私の方こそ、葬儀でお忙しい
ところに……。」
そう言い、頭を下げ顔を上げた朱楽の隣に
千景は違和感がし、眉を顰める。
「美琴はどうした?」
いつも朱楽に付き添っている、淡い瞳が
見当たらない。
「屋敷に帰しました。」
そう答えたその瞳は、伏せられた睫毛でよく見えなかった。
「……本当にもう大丈夫なのか?」
_ここへ来てまだ一ヶ月だというのに……。
いくら千景に長らく仕えていた武士の子と
いえど、まだ歳は十三なのだ。
大人ばかりの家臣らと対等に渡り合い、
恭史郎に着いていかなければならない。
それがどれほど辛く、苦しいことか、
千景にはよく分かっている。
そんな彼の真剣な眼差しを受け止め、
朱楽は屈託のない顔で笑った。
「大丈夫ですよ!」
「それに…」と千景に向けていた顔を
縁側にやり、笑みを消す。
「…美琴のお母上はもうあまり善くない
そうなのです……。
始まりは、彼女が来栖様にもう一度
お会いしたいと言ったことですが、
慣れない環境で心細いからと、彼女に
着いてきてもらったのは、私の我儘ですから。」
そう言いきった、朱楽の大人びた横顔に
目を見張っていた千景だったが、
「…!?……待て。
では美琴はもう一度私に会うために、
わざわざ男装したのか!?」
その珍しく声を上げた千景の様に、朱楽は
戸惑いながらも、
「え…えぇ…。」
と答える。
「あれ?お聞きしませんでしたか?」
と不思議そうに朱楽が尋ねるも、その声は
千景には届いていなかった。
美琴に初めて出会い、助けた後、彼女が
千景に言ったことを思い出していたから
である。
“貴方の名をお聞きしているのです。”
“……何故、名など聞く?”
“何故って助けて下さったんですもの。
何かお礼もしたいし。”
はっ、と自嘲気味に笑みをつくった千景は、
軽く頭を振って自分の考えに呆れる。
_礼を口実に会いに行く、と?
馬鹿馬鹿しい。
そう笑い捨てるも、
_もう一度私に会いたい_本当に?
その一心だけで?
「…私に会いに来たのか……?」
門前で用払いをくらったらどうするつもり
だったのだ?
私がすぐさま“女であろう?”と追い返したら
……?
「……分からん…。」
_この胸を巣食う気持ちが。
それならば、確かめる他なかろう?
そう、もう一人の自分に言われたような
気がし、千景はふっと今度は穏やかな
笑みを浮かべ、朝議の行われる部屋へと
向かった。
夕方
美琴は今日も、床から出られない母に
代わって夕市に来ていた。
「お!美琴ちゃん!
久しぶりでねぇか!」
声のした方を向くと、店頭で鉢巻をした男が
こちらに手を振っていた。
「八百屋のご主人!」
美琴もぱぁ~と笑みを浮かべ、店頭に
走り寄る。
「今日は何がおすすめですか?」
あれも安いな、これも欲しいなと、
並べられている野菜に目移りしながら
尋ねた。
「そうだな…」
と、主人が答えようとしたその時だった。
「おい、大変だ!
あそこで、侍同士の斬り合いが
起こってるぞ!!」
隣の店に買い物客の男が呼び掛けた。
「え!?」
「何だって!?」
美琴と主人も、その買い物客が向かった
方向へ慌てて走っていく。
するとそこには、たくさんの人だかりで
人と人の隙間からしか見えないが、
確かに二つの刀の刃が激しくぶつかり合っている様子が目に入った。
「何やってるんですか、
こんなところで!!」
そう叫んだ美琴に驚き、こちらを振り向く
野次馬を掻き分けて、彼女は列の先頭まで
来た。
すると、刀を構えたまま苦しそうに
片膝を立てている人物を見て、美琴は
目を見開いた。
「来栖様!?」
その戸惑ったような叫び声に、来栖は
こちらに顔を上げる。
「_っ!?」
その顔を見た美琴は、思わず口を両手で
覆った。
虚ろな瞳をした来栖の口からは、何筋もの
鮮血が溢れ出て、その顎を伝っていく。
_いったい何が……!?
そんな来栖を静かに見下ろしている男に、
素早く目を向けると、その手には
来栖の血が滴り落ちている刀が
握られていた。
おそらくこの男が来栖と刃を交えて
いたのだろう。
美琴は堪らず来栖の前に飛び出した。
「もうやめて!!」
両手を広げて来栖を庇う美琴に、
男は口を開いた。
「_廃れたな。八雲の軍師。」
そう吐き捨てると、手にしていた刀を鞘に収め、後ろを向き、
「退け。」
その一言で慌てて列を空ける野次馬を
尻目にすると、男は美琴に向かい、
「その無様な男に伝えろ。
次は手加減は承知しない、とな。」
それだけ言うと、男は野次馬をすり抜け
消えていった。
「え!?あ、ちょっと!」
と美琴が呼び止めるも、散り始めた人々の
声にかき消されて届かなかった。
「…っ…み…こ、と……」
その切れ切れの声にはっとして後ろを
振り向くと、片膝で耐えていた来栖が
その場に崩れ落ちた。
「!?来栖様!?」
慌ててその肩を支え、呼び掛けるが
気を失っているのか、その目は閉じられた
ままだ。
空いている右手を腹部に当てると、
ぬめりとした感触が伝わる。
恐る恐るその手を見ると、来栖の鮮血により
赤く染め上げられていた。
「…っ……は…ぁ…っ……」
美琴の頬に溢れ出た涙が伝う。
「来栖様ぁぁぁ---!!!」
その悲痛な叫び声は、日が沈もうとする
夕市の中心で響き渡ったのだった。
〈続〉
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