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〈第二話 慮外〉
その夜は、美琴は布団に入っても寝付けずにいた。
本当に先のことは現実だったのかと、自身の肩を抱く。
まさか、あの八雲恭史郎の家臣に助けられるとは。
それも、軍師・来栖千景に。
今やこの日の本に、八雲の名を知らない者などいないに等しい。
尾張を治める武将・八雲恭史郎。
今から六年前、桶狭間にて駿河の大名を破り、その頭角を現した。
そして自身の従弟を破って、尾張の統一を果たしたのは、昨年のこと。
その恭史郎の家臣であり軍師でもある、来栖千景もまた、一目おかれている存在だった。
戦の際は常に、前線でその判断を仰がれ、武術が長けていることは無論、頭脳明晰でもあるそうな。
_そのようなお方が、何故夕方の市などに……?
それに、今思えば着物も正装ではなかった気がする。
そんなことを混沌と考えているうちに、いつの間にか美琴は眠気に襲われた。
翌日
美琴は縁側に腰掛け、昨日の物思いに更けっていた。
すると、右頬に何かが触れ右を向くと、今度は左頬に何かが触れて左を向いた。
「ちょっと!」
そこには美琴の幼なじみで隣に住んでいる、御影朱楽が人差し指をつくって立っていた。
どうやら、頬に触れたのは朱楽の指だったらしい。
「何か悩み事でもあるのか?
それなら私が相談に乗るぞ?」
朱楽は美琴の隣に腰掛け、唇を尖らせてこちらを見やる彼女に、片眉を上げて応じた。
「それではお言葉に甘えて。」
すると、美琴は咳払いをし、体ごとこちらに向き直った。
「お?
今日はやけに素直だな。」
やっと頼ってくれる気になったかと、朱楽も美琴に体を向けた。
「昨日、来栖千景様にお会いしたの。」
朱楽は一瞬、自分の耳を疑い、
「何だって?」
と、わざとらしくはにかみ、美琴の顔を覗き込んだ。
「だ・か・ら!」
美琴はその淡い瞳を大きく見開くと、朱楽の耳元に顔を寄せ、
「八雲恭史郎様の家臣・来栖千景様に会ったつってんのよ--!!」
「あ-分かった、分かった、あ-。」
そう耳を軽く何度か叩き、適当に返答をする朱楽に、美琴はその手を払いのけて耳をつねる。
「痛!」と声を上げたのを確認し、美琴は体を背けた。
「昨日、夕市の帰りに襲われそうになった時に、来栖様が助けて下さったの。」
「本題戻るの唐突だな!
何だったんだよ、さっきのやつ!」
朱楽は、美琴の切り替えのタイミングに呆れて突っ込むと、
「……。」
美琴は何も言わず、朱楽に微笑んだ。
_え---。
_とてつもなく意味深に見える……。
開いた口が閉じられないでいる朱楽。
「来栖様は八雲様の家臣で…」
_いや、続けるんかい!
「…その来栖様の元に仕えているのが、朱楽の御影家でしょ?」
こちらの返答を待ち、小首を傾げる美琴に、慌てて、
「あ、あぁ…そうだな。」
と答え、やっと開いたままだった口を閉じる。
「何故、来栖様は昨日、夕市にいらしたのか分かる?」
_何を聞くかと思えば。
朱楽は元の調子に戻り、さらりと告げた。
「多分毎日、市のどこかしらでふらついてらっしゃるぞ。」
「こんな下町の市で?
何故?」
こちらに詰め寄るその真剣な表情に、朱楽は戸惑いながらも、
「あのお方は、目の前で困っていたり、お前みたいに何かに巻き込まれた人を放っておけないだろうから……。」
と答えた。
「もどかしいんだろう、きっと。
城から見えるのは、八雲様がつくられた活気ある城下町だけだ。」
朱楽には訪れる度に、城の天守閣でそれを見下ろす主の背中が、どこか悲しげに見えていた。
「“私がこうして見下ろしたいのは、下町だ”と、何時か仰ったことがある。」
ふと、反応のない美琴の方を見ると、案の定、涙で顔をくしゃくしゃにさせていた。
「ぞうだっだんだね……。」
「……ひでー顔。」
「……うるざい。」
「全く……。」
朱楽は美琴の顔に手拭いを押し付け、自身の胸に抱き寄せた。
〈続〉
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