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〈第五話 序幕〉
「面を上げよ。」
その言葉を合図に、美琴たちは一斉に頭を上げた。
美琴は恐る恐る、この城の主・来栖千景の顔に目を向ける。
面長で通った鼻筋が、今度ははっきりとその顔の端整さを表している。
そして、その漆黒の瞳は何故だか少し、憂いを帯びている様に見えた。
ふいに、その瞳がつう、とこちらに視線を寄越した。
「…!?」
美琴は慌てて目を伏せる。
「そなたのことは朱楽から聞いた。
なんでも、京の業家のご子息だとか。」
「へぇ…。
業清良と申します。」
公家独特のなまりを意識しながら、清良こと美琴は口元に笑みを浮かべた。
実は朱楽の言伝で、知り合いで御影家に世話になっているらしい公家の、業氏に協力をお願いしたそうだ。
「長旅ご苦労だった。
滞在中はこの城にお泊まりになると良い。」
「ほんに、かたじけのうございます…。」
清良の側に控えていた業氏が礼を言い、二人して頭を下げた。
翌日
清良は公家衆の茶会に招待され、昨日、来栖に挨拶をした部屋へ向かっていた。
しかし、さすが八雲恭史郎の名高い家臣の城である。
広すぎて昨日の部屋がどこにあるのか、さっぱり分からない。
通っている廊下には、ずらりと障子が並んでいるが、まさかこれを一つずつ開けていくわけにもいかない。
唯一頼りになる朱楽は、今日は休業日なので御影家だ。
_どうするよ、もう……。
ため息をついて振り返ったその時だった。
トン!と誰かにぶつかった。
清良は思わず、痛たたた…と、こめかみを押さえ顔を上げる。
「!?」
そこには、目を丸くしてこちらを身下ろしている来栖の姿があった。
ぎょっとして慌てて頭を下げる。
「こ、これは来栖様!
申し訳ございません!」
最悪だ、と清良が目を瞑り来栖の怒りを覚悟していると、
「……ふっ……ハッハッハッハッ!」
驚いて顔を上げると、来栖は満面の笑みで笑っていた。
その顔を見て、清良は思わず息をのんだ。
まるで時が止まったかのように、来栖の笑顔から目が離せない。
城内に射し込む朝日が、その端整な顔を余計に映えさせる。
笑い終わっても尚、来栖の口元には笑みが浮かんでいた。
そうしてゆうるりと、こちらに視線を寄越し、
「そう強張るな。私は怒ってなどいない。」
_……あの時と同じ声……。
人攫いから助けてくださった時と同じ、低くて穏やかな声音だわ、と清良は思った。
「…して、ここで何をしていたのだ?」
少し訝しげに眉根を寄せる来栖に、清良ははっと我にかえった。
小さく咳払いをして公家言葉モードに切り替える。
「へぇ…その……」
ちらりと来栖の顔を盗み見る。
来栖は軽く目を開き、片眉を上げ、清良の返事を待つ。
「…その…お公家様方が集まっていらっしゃる、お部屋に参りたいのでございますが、少々迷ってしまったようで……。」
はにかんで答えると、来栖はすこぶる可笑しそうに口端を上げ、「そんなに広いか?」と、清良の顔を覗き込んだ。
「…っ!?……へ、へぇ…そりゃあ、もう……。」
_まずい…っ……女だって気づかれる!
と、清良は慌てて顔を背ける。
「ついてこい、清良。
私が案内しよう。」
「へぇ…。…へぇ!?」
顔を上げると、来栖はもう廊下のつきあたりまで歩を進めていた。
「お、畏れ多いです、そんな!」
慌ててその後を追った清良は、もうすっかり公家に変装していることを忘れてしまったのであった。
〈続〉
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