芝浜文士

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ろれつの上手く回らない舌で通孝がまくし立てる。それでも三島は情に訴えられてつい当時のことを思い出してしまう。その頃の通孝は確かに気鋭に満ちていた。通孝の書く作品は斬新で、中には評価の分かれるものもあったけれど、三島はそのどれもが好きだった。若い三島も今よりは気概があって、気に入った作品は多少無理をしてでも出版したものだ。だから通孝が過去の思い出を語る時、それは三島自身の思い出話でもある。未だにこうして通孝に付き合っているのは、己自身が過去に執着しているからなのかも知れないと三島は思った。 「ほら、三島くんも飲んだ飲んだ。」 通孝が徳利を持った片腕を三島の肩に回す。三島は通孝の細い腕を振りほどきながら、腕時計に目をやると夜11時を過ぎたところだった。 「私はもう本当に帰りますよ。先生も、奥さんが家で待ってらっしゃるんじゃないですか?」 手酌でお猪口に日本酒を注ぐ通孝の手が止まった。通孝は彼の中の何かスイッチが切れたみたいにして、項垂れる。 「奥さん。奥さんねぇ。」 三島はしまったと思ったがもう遅い。通孝が一旦こうなってしまってはもうどうにもならないことを三島は良く知っていた。 「それこそ、俺には高い買い物だったな...。」 通孝の目は虚に、お猪口をぐいとやる。もう三島のことは意に介していない様子である。 三島は哀しそうな顔で、酔っ払いの通孝をじっと見つめた。通孝が今の苦境から逃れられずにいるのは、恐らく通孝の妻の為であるということ三島は分析していた。もし通孝が独り身であるならば、きっと今の高いマンションなど直ぐに売り払って、またアパートか何かに越すことを選んでいただろう。そうすれば、安い文章を書いて日銭を稼ぐ必要もなくなり、次の作品に集中して取り組むこともできるというものだ。しかし通孝がそう出来ないのは、それは一重に妻の優子の為に違いない。 優子は女優だった。映画化された通孝のデビュー作で彼女がヒロインを演じたことが二人の出会いのきっかけだった。優子は結婚を期に芸能界を引退しているが、さすがに元女優だけあって優子は美しい女性だった。当時まさか女優が作家と付き合うなんてことがあるとは思わなかったと言ったのは、通孝本人だった。その時は三島も女優と結婚出来るなんて羨ましいなと思った思ったくらいだったけれど、今となっては少し同情さえする。 格差のある結婚は不幸だ。 結婚した当初こそ通孝と優子が不釣り合いという訳では決してなかったけれど、今の通孝は明らかに無理をしている。マンションを売ってしまわないのもその一つだろう。優子をボロアパートに住まわせる訳にはいかないと通孝は考えているに違いない。
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