芝浜文士

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“飲む”、“打つ”、“買う”は男のたしなみなどと言うけれど、それも昭和の話。今は平成を飛び越えて令和の時代に、道孝(みちたか)のような放蕩男を地でいく人間はきっとそう多くはいない。時代に抗うと言えば聞こえは良いが、逆に時代に置いてけぼりにされているというのが実際のところだろう。何しろ道孝は三文文士、つまりは売れない小説家である。道孝の場合、失敗の原因は酒だった。もともとは才気に満ち溢れる作家で、一度は新人賞も獲った。作品は映画にもなった。しかし、次の作品が続かない。筆が止まれば気持ちは焦り、ますます書けなくなる。酒に溺れるようになるまでにそれほど時間はかからなかった。 「熱燗で、もう一合!」 その日も通孝は新橋にあるチェーンの居酒屋で担当編集者の三島(みしま)を連れ立って酒を煽っていた。 「先生、もう止めにして帰りましょうよ。」 三島が情けない声で通孝に言った。 「あぁ?まだ、飲み始めたばかりじゃないか。まったく酒でも飲まなきゃやってられないんだから、三島くんも付き合いなさい。」 三島は中堅出版社の編集者で、通孝とは長い付き合いになる。殆どまともに文章を書かなくなった通孝に未だに愛想を尽かさずにいるのは、この三島くらいである。 「先生、お金あるんですか?もうウチの経費じゃ落とせませんよ。」 「そんなことは分かってるよぉ。出版社にたかるほど俺は落ちぶれちゃいないだろ?」 通孝はそう言うが、結局支払いはいつも三島持ちである。三文文士に金などある訳はないのだ。売れっ子だった時に稼いだ金は、タワーマンションの頭金と酒代に消えている。ローンの日々の返済と生活費を賄って余りあるほどの稼ぎが今の通孝にあるとは思えなかった。 「先生は歩いて帰れる立派な家がありますけどね、私はここから電車で帰らなくちゃならないんですから。本当にもう帰りますよ。」 「おいおい、電車って言ったって、まだ終電までは小一時間はあるだろう。いいか、俺はその立派な家にいる時間を少しでも短くしたいんだよ。あんな居心地の悪いところはないね。全く割りに合わない買い物だった。デビュー前のボロアパートの方がよっぽど性に合ってるんだよな。あの頃は良かっただろ?風呂もないボロ屋だったけどさ、夢があった。夢中で小説を書いて、それで満足だった。三島くんもあの頃の作品が好きだって言ってたよね。」
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