拓海

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四  それから、いくつもの季節が過ぎていった。  寝て、起きて。仕事をして、また寝て。  そんな繰り返しの日々が過ぎていき、繰り返しの中で白髪が段々と増えていくように時間の歩みは止まらずにいて。  あの事件から何日経ったのかも、もう数えなくなって。  気づけば、数年が経っていた。  しかし、私の腕時計はあの時から一秒たりとも針を進めておらず、私自身もあの事件から一歩も前に進めずに居た。  あれから約一年ほどの休職期間を経て、私は水木町交番に戻った。  しかし、交番に居座り、時折外に赴くだけの日々は、かつてのように鮮やかな色に満ちたものではなく、どこまでも無味乾燥だった。  拓海は、正当防衛が一部認められたものの尊属殺人であったこともあり、少年院に収容されることとなった。  拓海が収容されてから、私は拓海の面会には一度も行かなかった。  拓海に合わせる顔が無かった。会った所で、どんな表情をすればいいか分からなかった。どんな話をしてよいか分からなかった。  拓海を裏切ってしまったという後悔が突如として胸の内に飛来し、眠れない日々がもう何年も続いていた。  拓海からは何度か私宛に手紙が届いていたが、全て受け取りを拒否した。彼によって綴られた言葉が、もし私を責めていたら。そう考えるだけで、恐怖に体がすくんだ。  私は再び、果てることのない孤独の中で、死んだような日々を送っていた。 ・・・  今日も夕方までの勤務だが、いま書いている日誌を書き終えれば、今日の仕事の大体が終わりだった。ほとんど定型句のようになっている文を機械のように書き連ねていると、突然けたたましく卓上の置き電話が鳴り響いた。 「西村、取ってくれ」 「分かりました」  昨年の暮れから新任で来た西村に頼んで、うるさく鳴り続けている電話を任せる。これでようやく静かになったと思い、再び日誌に目を戻す。 「はい、こちらは水木町交番、西村です。……え、はい。近本巡査長ですか?ええ、居ますけど。……ああ、代わりますね」  私の名前が呼ばれたので、思わず顔を西村へと向けると、西村は既に受話器を私に向かって差し出していた。 「巡査長、良く分からないですが、男性の方からです」 「ああ」  釈然としないまま、西村から受話器を受け取り、耳へと当てる。少し冷たさを感じるプラスチック製の受話器の奥からは、 『近本さん。公園で落書きしながら、待ってるよ』 私が良く見知った人物からの声が、響いてきた。 ・・・  息を切らしながら走った。  正直言うと、怖くて堪らなかった。拓海に拒絶されたら、拓海が私を恨んでいたらと考えるだけで、足が縺れてしまい何度も転びそうになった。  しかし、私は足をひたすら前へと運び、不格好になりながらも走り続けた。  公園で、息子が、待っているんだ。  こんな不出来で最低な、父親紛いの私のことを、待ってくれている。  もう私を止めることができるものは、何もなかった。  両側に同じような見た目の新興住宅街が並ぶ、薄暗い路地を独りで駆けていく。  道の終わりで一気に視界が開けると、新しく建てられた住居に囲まれた、緑で満ちた公園が段々と見えてきた。  公園に入って、伸びきった雑草の上を歩く。  砂場の横を通りすぎる。  公園の奥へと進んでいくと、夕方の陽光に染められた真っ赤な公衆トイレの壁が見えた。  そこには、短く揃えた黒髪に逞しい体つきの男性が立っていて、へらへらとこちらに手を振っていた。  涙が零れそうになるのを、右手の親指と人差し指で両の目頭を押さえることでぐっと堪える。  一歩一歩、踏みしめるようにしっかりと歩いていく。 すっかり大きくなった拓海の前に並び立つ。 「遅かったね、近本さん」 「……こっちは仕事があるって、言ってるだろ」 「手紙で何度も呼んだのに」 「…………ご、めん」  ずっと抑えたままの指の隙間から、涙が指を伝って流れていき、地面に落ちた。  その場で崩れそうになる私のことを、拓海は大きくなったその手を私の両肩に回すことで、強く支えた。  しばらくの間私は両肩に置かれた拓海の手の温かさを感じていた。  すると、拓海はそっとその手をどかし、ポケットの中から装飾の施されたシックな黒い箱を取り出した。  その箱には、私がよく知っているブランドの名前が書かれていた。 「これを、ずっと、渡したかったんだ」  拓海が箱から慎重に、銀色に重厚に輝く腕時計を取り出し、そっとそれを私の腕へと通していく。  私の腕に付けられた銀の腕時計は、確かに時間を刻み、針を動かし続けていた。 「ずっと……、感謝を伝えたかったんだ。居場所のない俺に、居場所をくれてありがとうって。俺に優しくしてくれて、ありがとうって。いつも見守ってくれて、ありがとうって」  言葉を紡ぐ拓海の声が次第に震え、途切れ途切れになっていく。  鼻を何度も啜りながら、何とか紡ぐ彼の言葉は、私がずっと欲しかった救いの言葉だった。 「拓海……」 「そして、近本さん……。取り返しのつかないことをした、俺の事を、許してください」 「拓海……。私もだ。私もお前を守れなかった。こんな私を、許してくれ」   拓海が、私の胸へと飛びつき、腕を背中へと回す。  私もゆっくりと両腕を彼の背中へと回していく。そうして触れた彼の背中は、小刻みに震えており、私がよく知っている幼い頃の拓海は変わらずそこにいるんだと、そう感じた。  拓海は過ちを犯し、成長した。  けれど、変わらないものも確かにあって、その変わらないものを守るために、私はまた歩み始めるんだ。  一陣の風が吹いて、桜の樹から視界いっぱいに薄桃色の花びらが宙に舞った。  それを見ても、私の心は全く平穏だった。  そうだ、拓海と花見にでも行こう。  そんな呑気なことを思いついて、思わず笑みが溢れる。  桜吹雪が止み、ようやく開けた視界の奥、拓海の肩越しに見えた公衆トイレの壁には白いスプレーで落書きがなされていて。  それは、何とも下手糞だったが味のある、大口を開けて笑い合う親子の絵だった。
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