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一
ジリリリとけたたましく卓上の置き電話が鳴り響いた。
頭が痛くなるような音のでかさに毎度のことながら辟易してしまう。
口から小さくため息が漏れ出ていく。
私は日誌を書く手を一旦止めて、少し離れた電話の下へ向かい、受話器を耳に押し当てた。
「はい。こちら水木町交番、近本です」
「近本巡査長、ご苦労様です。先程、そちらの町内の水木公園に設置されている公衆トイレに落書きをしている少年がいるとの通報が入りました。出動願います」
「また、ですか……」
「それでは」
こちらの反応は意にも介さず、市警察の連絡員は無機質な声で用件だけを告げ、一方的に会話を終わらせた。
日誌を書き終われば今日の仕事も大体終わりだと思っていたのに、本当にあいつは毎回間が悪いというか、何なのか。
壁に掛けられたシンプルな丸時計にそっと視線を送ると、間もなく五時になろうかという所だった。
嘆いていても仕方がない。むしろ、久々の呼び出しで、若干楽しみにしている私がいるのも否定はできなかった。
私は部屋の奥側の建付けの悪くなっている裏口を無理やりに開いて外に出て、脇に止めてあった自転車に乗り、通報のあった場所へと向かった。
春の陽気を穏やかなそよ風が運んでいた。
しかし、割かしに重装備で外に出てしまったためにシャツの中では幾筋かの汗が肌を伝い、気持ち悪かった。
みな一様に同じような見た目をしている新興住宅街の間を縫って道を進んでいく。道の終わりと同時に視界が左右にいっきに広がり、公園を取り囲む少し錆びかかった鉄製の柵が段々と見えてきた。
すっかり荒れ地になっている私有地の脇を抜けて公園の入り口にたどり着く。
大きな杉の木が一本だけ生えている辺りに自転車を停めて、私は歩き出す。
背の高くなった雑草の上を歩いていく。
遊んでいる子供のいない殺風景な砂場の隣を通り過ぎ、奥の公衆トイレに目を凝らす。
少しだけ葉の混じった桜の木で陽光が遮られ、一層薄暗くなっているそこには、公園の雰囲気には全くそぐわない目立った金髪を携えた少年が、壁に背を預けながらへらへらとした笑みで、こちらに手を振っていた。
「今日は遅かったね、近本さん」
「拓海、お前なあ……。こっちは仕事があるって言ってるだろ」
「呼ばれた所に行くのが仕事じゃないの?」
「…………」
思わず頭をはたきそうなるが、そうすると拓海に喧しく責め立てられて余計に疲れそうなので、ぐっと堪えた。
一先ず拓海の事は無視してトイレの側面へと回ると、そこにはいかにもなぐちゃぐちゃとした落書きと、使用済みのスプレー缶がいくつか散らばっていた。
本当にこいつはいつもいつも……。少しはこの馬鹿が反省するように低い声をつくり、拓海に向かって凄む。
「おい……。何だこれは」
「これは俺の芸術作品だよ」
そう言って拓海がふんっと鼻息を荒くして胸を張ったので、私はその胸ぐらを強めに掴んで言う。
「消せ、今すぐ」
「え、でも――」
「今すぐだ」
「わ、分かったよ……」
私の渾身の表情に怖気づいたのか、拓海は急に泣きそうな顔になった。一応は反省したようなので、胸から手を放してやると、拓海はおずおずとトイレの脇に置かれた白いペンキの入ったバケツを取りに向かった。
こうやって落書きを消すためのペンキをあらかじめ用意してある辺りが、本当に憎めない奴だ。
仕方がない。
私は汗ばんでしまったシャツの袖を二重に捲って、目の前でローラーを使って器用にペンキを塗っている拓海の隣に並び立った。
「ローラーを一つ貸せ」
「……いいの?」
「そっちの方が早いだろ」
「……ありがとう」
隣で小さく呟く拓海の頬が少しだけ赤らむのを見て、私は思わず苦笑を浮かべてしまう。
本当にこいつは、いつも手がかかる奴だ。
柏木拓海は、いわゆる非行少年だ。
初めて出会ったのは、今から三年ほど前。拓海がまだ中学一年だった頃だ。
あの時のことは今でも良く覚えている。あれは、桜が徐々に散り始めた、静かな春の夜のことだった。
・・・
その日は遅番で夕方の五時から勤務に入った私は、早めに近所のパトロールも済ませ、ラジオを聴きながらその日の市警からの連絡事項を流し読みしていた。
すると、卓上電話が突然鳴り響き、交番への着信を知らせた。完全に不意を突かれて少し驚きつつも手早く受話器を取ると、近所のコンビニで発生した万引き事件へ向かうようにと、市警からの要請だった。
すぐに自転車を走らせて、目的のコンビニへと向かった。
数分自転車を走らせてようやく店へと辿り着くと、しかめ面を隠そうともしない少し禿げかかった中年の店員が店の前で仁王立ちしており、私を見つけるとすぐに店内の奥のスペースへと案内してくれた。
扉を開いて中へ入ると、そこには真っ白な壁に囲まれて長机とパイプ椅子が中央に数個置かれただけの殺風景な部屋が広がっていた。
椅子には、縞模様の服を着て腕を組んだ、これまたしかめ面の若い男の店員と、うなだれて表情の窺えない背の低い少年が互いに向かい合って座っていた。
「お巡りさん、こいつが万引きした子です」
私に向き直った中年の店員が、椅子に座っている少年を指差して、心底軽蔑した様子でそう言った。
指差された少年はびくっと体を震わせ、一層顔を下に沈めてしまう。
「てんちょー、こいつ何も言わねえっすわ」
「ああ⁉ 何か言う事あんじゃねえのか⁉」
店長と呼ばれた男が少年に向けて凄むと、少年はぎゅっと強く拳を握って、体を小刻みに震えさせていた。
「まあまあ、店長さん。一旦落ち着いて、最初からもう一度話をしましょう」
一度頭に血の上った店長を宥めて、私も席に着いて話を聞くことにした。
鼻息荒く店長が語ることには、度々店の前でたむろしていた少年が、今日は一人で入店してきたという。少年はコソコソと周りを伺うような怪しい挙動をしていたため、しばらく見張っていると手に持った菓子パンを鞄にそっとしまったとの事だった。
すぐに奥のスペースに連れていき、警察に電話するぞと脅しても少年は一言も発さずに俯いたままだったので、言葉通りに警察に連絡したのだそうだ。
とりあえず大まかな経緯は聞けたので、ぐすぐすと鼻を啜る音を先程からあげている少年に向かってなるべく穏やかな声色で話しかける。
「君、なんか反論はあるか?」
「…………」
「黙ってたら、ずっとこのままだぞ」
「……ありません」
「そうか、じゃあ親御さんに連絡しようか」
ようやく小さく返事をした少年に向かって諭すように言葉を投げる。
こういった問題は保護者を呼んで店側と話し合いをすれば大体は解決する。面倒くさく拗れるケースとしては、保護者が過保護な、いわゆるモンスターペアレントの時だ。そんな場合には、私の息子がそんなことするはずない、何かの間違いだなどとある種の常套句を並べて、いつまでも問題は平行線を辿ることがほとんどだ。
お願いだから普通の親であってくれと内心で願っていると、目の前の少年が聞き取れないほどの微かな声でボソボソっと何かを呟いた。
これは、やっぱり拗れるケースかも知れないと、私は何となく嫌な予感がしながらも、少年を問いただした。
「どうかしたのか?」
すると、少年から細々と紡がれた言葉は、
「……親父は、呼んでも来ない、です。俺に、興味ないから」
私の予想とは大きく違っていて、私は思わず言葉を失った。
同時に、ずきりと左の胸が痛みだし、私は堪らず左手で強く自分の胸を抑えた。
「呼んでも、来ない……?」
「はい……」
俯いたままの少年の声は次第に嗚咽交じりになり、足元の床に涙が数滴零れて弾けた。
「いいから早く呼ぶんだよ‼」
「少し待って下さい」
怒声をあげる店長を右手で静止し、少年の傍へと近づいた。
「とりあえず、一度電話させてもらえるか?」
動揺を悟られないように努めて穏やかな声で少年に語り掛けると、少年は黙ったまま鞄から手帳を取り出して、父親の連絡先を開いた状態で私に差し出した。
それを受け取って、私の携帯で書かれた番号を打ち込み、《発信》をタップして電話を耳に押し当てる。五度ほどコールした後、低い声が抑揚のない平坦な調子で応えた。
『もしもし』
「もしもし、私は水木町交番の者ですが。えーとあなたは――」
少年の名前が分からず、一度受話器から耳を離して少年に名前を尋ねると、少年は短く「拓海です」とだけ答えた。小さく頷いて受話器に耳を戻す。
「えー、拓海君のお父様でお間違いないですか?」
『あー、はい。拓海の父です』
「よかったです。それでですね、お宅の拓海君なんですが、どうやら駅前のコンビニで万引きをしたようでして」
『そうですか』
「そ、そうですか?」
あまりに淡々とした受け答えに思わずオウム返しをしてしまう。
『ご迷惑をおかけしてすみません。それでは――』
「い、いや! ちょっと待ってください!」
『はい?』
「あ、あの、一度こちらのお店までお越しいただけませんか?」
『あーはいはい、そういう事ですか。でもそれって私が行かなければいけない奴ですか?』
「え……」
なんだ?なんなんだこの男は。
本当にこの子の父親なのか?
受話器の奥から聞こえてくる、どこまでも冷め切った、まるで興味がないといったような様子の声に、私はただ唖然とするしかなかった。
『私も忙しいので。できればそちらで解決してくれませんか?』
「息子さんが万引きしたんですよ⁉」
『そいつももう十四ですから。そいつのしたことに私は関与しませんので』
「そ、そんな……。せめてお母さまだけでも――」
「母親なんて、とうの昔に蒸発してますよ。そいつならどこかにぶち込んでも構いませんから。それでは』
「ちょ、ちょっと‼」
私が話を続けようとするのを一切構わずに父親は電話を切ってしまった。プー、プーと通話終了を告げる無機質な音が受話器から私の耳に向けて空虚に鳴り響いていた。
携帯をそっと下ろして隣に座っている少年の方を向くと、少年はその小さな両手に顔を埋めて、必死に漏れ出る嗚咽を抑えているようだった。
先程まで随分と息巻いていた店長ともう一人の従業員もさすがに困惑の表情を浮かべていた。
「お、お巡りさん。あのー、やっぱり商品を返してくれさえすればうちは結構ですので……。後の事はお任せしても宜しいですか……?」
「……かしこまりました」
一先ずこの場はお店側の好意によって話がつけられ、ようやく立ち上がった少年は私の隣で深々とお辞儀をして謝罪を述べた。
店員たちは早く行ってくれと言わんばかりに嫌な顔をしてその謝罪を受け取った。
店を出て自転車を押しながら交番への道を少年と共に歩いた。
その間はほとんど会話がなく、私たちは道を埋め尽くすほどに散った薄桃色の桜の花びらを踏みつけながら、ただひた歩いた。
桜の花びらを一歩、また一歩と踏みつける度に、私の胸は刺すような鋭い痛みに襲われて、漏れ出る荒々しい息遣いを必死に隠していた。
ようやく交番へとたどり着き、怯えた様子の少年をソファへと座らせる。私は一度給湯室へと足を向け、手早く紅茶を入れて少年の前に差し出した。
「あ、ありがとうございます……」
小さく礼を述べて、少年がそっと紅茶を口元へと運ぶ。改めて注視してみると少年は歳の頃よりも幼く見える顔つきで、体つきも随分細く見えた。
向かいのソファに私も腰掛け、一度小さく咳払いをしてから、話を切り出す。
「こんな事、二度とするなよ」
「はい……」
小さく返事を返しながら、少年の瞳には再び涙が浮かび始めていた。
「反省はしてるのか?」
「してます……」
「そうか、反省を一瞬でも欠かしたら逮捕するからな。よく覚えておきなさい」
「分かりました」
そう言って少年は深々と頭を下げた。万引きをするのに心を痛めないようなろくでなしの非行少年には、私にはどうしても見えなかった。
「どうして万引きなんかしたんだ」
「それは、あの……」
「うん」
「お腹が、空いていて、どうしても何か食べたくて……」
そう答える少年の唇が小刻みに震えるのを眺めながら、私は静かに怒りを燃やしていた。もちろんこの子の父親に対してだ。
痩身の少年を見れば、栄養が足りていないのは明らかだった。だから万引きが許されるという訳ではないが、その責任の一端は彼の父親が握っている。
まして、正常な倫理観を教える家庭環境がこの子にはあるのか?まともな大人が、模範となれるような大人が、この子の周りにはいるのか?
あの、ふざけた父親しかこの子には居ないんだ。
誰がこの子を正してあげられるんだ。
どうして、あんなクズのような男が親になれるのに。どうして。
やり場のない怒りが、沸々と湧き上がって来ては握った掌へと集められていく。少し伸びた爪が右手に食い込んで、じんじんと痛かった。
「家は、嫌いか?」
「え……?」
少年の赤くなった瞳を、真正面から見つめる。少年は再びさっと視線を自分の膝元の方へと下げて、ぼそぼそと呟く。
「嫌い、ではないけど。たまに、怖いです」
「そうか」
気づけば、胸の痛みは跡形もなくどこかへ消え去っていて、
「怖くなったら、ここに来なさい」
そんな事を口走っていた。
私しか、いない。この子を正してあげられるのは、私しか。
少年の目から一つ、また一つ涙の雫が落ち、彼の膝に小さな染みをつくっていく。
「分かったか?」
私の問いかけに、少年が小さく頷く。
私の口から紡がれる言葉が同情か、偽善なのか、それとも己に対する慰めなのか自分では分からなかったが、そんなことはどうでもよかった。
ただ、目の前の小柄な少年から、目が離れてくれなかった。
少年の大きな瞳から零れ落ちる涙は次第に大きな流れとなって、その双眸から滔々と流れ落ちた。
・・・
その日から、拓海は度々交番を訪れた。
彼はいつも自分の居場所を求めているように見えた。
私は常に拓海のためのお菓子を買って置いておくようになった。
また、拓海はしばしば他人にあまり迷惑が掛からないような方法で私の気を引くようになった。公共施設へ落書きをしたり、学校の校庭で花火を上げたり、時には同級生との喧嘩なんていうのもあった。その度に私は現場に駆け付け、本気で拓海を叱り、一緒になって後処理をした。
私に叱られる拓海は、いつも私に見えないようにしているつもりなのか、陰で少年らしい幼い笑みを浮かべていた。
そんな拓海のいたずらを、心のどこかで許して楽しんでいる私が居た。
最初は立場や歳の差もあってぎこちなかった会話も、回数を重ねる度、拓海と顔を突き合わせる毎に徐々に続くようになり、いつしか拓海は私に屈託のない笑顔を見せるようになった。
拓海と出会って半年ほど過ぎたある時、公園で少年たちがひどい喧嘩をしていると通報が入った。
寒空の中、私はどうも拓海が関係しているような気がして急いで現場に向かうと、拓海が頭や顔にアザを作った状態でベンチにうずくまっていた。
私が慌てて拓海の下へと駆け寄って、
「拓海! 一体どうしたんだ⁉」
と焦りを隠せない大きな声で尋ねると、拓海はへへっと小さく笑い声を漏らした後、こう答えた
「近本さん……。俺、あいつらに、万引きしろって、命令されたんだ……」
「万引き……」
「でもさ、俺、しなかったよ……。近本さんに、逮捕、されちゃうからさ……」
そう言って拓海は、痛々しい顔ではにかみながら、拳を私の方へとゆっくりと伸ばした。
私は差し出されたその拳を両手で優しく包み込み、静かに涙を零した。
その拳の温かさがとても印象的な、静かな静かな夜だった。
この件から、拓海はより一層明るくなって、それ以前に私たちを隔てていた最後の仕切りのようなものは、完全にどこかへ消えて行ってしまったようだった。
私たちの会話には世間話が増え、くだらない話が加わった。
冗談を言い合い、下世話な話で盛り上がった。
拓海は私にとって、放っておけない少年で、年の離れた友人で。
もう一人の、息子だった。
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