拓海

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二  辺りもすっかり薄暗くなった頃にようやく公園のトイレのペンキを塗り替え終わり、帰る途中でラーメン屋に立ち寄った。 「ラーメンでも食って帰るか」 「あれ?近本さん、勤務中じゃないの?」  「さすがに戻って着替えてくるさ」 「じゃあお金下さい。先に食べてるから」  今日の仕事も終わりなので、景気づけに拓海の頭を一発はたいてから自転車で交番に戻った。  手早く普段着に着替えて、少し急ぎ目にラーメン屋の前まで自転車を漕いで行くと、店の前で拓海は待ちくたびれたという露骨な顔を浮かべていた。  自転車を店の前に停め、再び頭を小突いてから中に入ると、手ぬぐいを額に巻いた頑固そうな店主がこちらを見ずに「いらっしゃい」と声を掛ける。とりあえず空いていたカウンター席に私が座ると、拓海が入り口近くの給水器から水を汲んで、私の分も持ってきてくれた。 「気が利くじゃないか」 「さすがに、これくらいは」  そう言ってへへっと気恥ずかしそうに笑う拓海の表情を見ると、親心のような、随分と懐かしい気持ちになってしまう。こいつは私の知らないところでも、しっかりと成長しているのだろう。 「あれ?近本さん、その腕時計止まってない?」  拓海が私の左手首に視線を向けて、そう言った。 「ああ、これか。少し前に止まってしまってなあ。亡くなったかみさんのプレゼントだったから何となくしてるだけだ」 「由香里さんの……」  拓海は何ともバツが悪そうに黙り込み、神妙な顔で目の前のコップの水を一気に呷った。  拓海は由香里に会ったことはなかったが、何度か生前の話について話して聞かせたことがあった。物心がついた頃から母親の居なかった彼にとって、その話がどんな風に聞こえたのかは分からなかったが、彼はよく由香里に会ってみたかったと言っていた。  私も、由香里と拓海が話す場面を、一目でいいから見てみたかった。  店主からラーメンが差し出され、美味そうな醤油の香りを思いきり吸い込み、両手を合わせる。  拓海と一緒にいただきますと唱え、同時に食べ始める。  食べながらそっと横に目を向けると、隣に並んで座る拓海の体はまだまだ細かったが、不健康な細さではなくて内心でホッとする。こいつにはしっかりと飯を食わせてやらなくてはいけない。  私はコップに注がれた水に口を付けながら、ふと思いを過去へと巡らせた。  拓海には内緒で、児童相談所に拓海の保護の話を持ち掛けたことがあった。  しかし、相談員と話した結果、明確に虐待やネグレクトとは断定できない現在の状況ではいきなり保護というのは難しいとのことだった。  また、調査に向かうとしても、もし明らかな証拠が検出されない場合、調査に踏み切ったことがかえって虐待を強めてしまう危険性もある。  私にできることは、あくまで拓海を見守り、時折食事を与えることだけだった。  結局、拓海はあの育児に無関心な父親と未だに二人暮らしを続けており、彼の家庭環境は改善されないまま今日まで至ってしまった。  それが歯がゆくて、私はもしかしたら積極的に拓海に関わろうとしていたのかもしれない。それが間違った事だとは思わなかった。  あるいは、やはり、自分への慰めだったのか。  ふとそんな考えが頭を過ぎったが、ラーメンのスープを口に運びながら、無理やりにその気持ちを忘れ去った。  世間話を交わしながらあっという間にラーメンを平らげ、ラーメン屋の前で拓海に別れを告げる。 「じゃあな、拓海。気を付けて帰れよ」 「ご馳走様です! そっちこそ気を付けて」 「ああ」  私が軽く右手を振り、踵を返して停めていた自転車へ向かおうとすると、後ろの拓海から背中越しに再度言葉を掛けられた。 「近本さん、俺、しばらく忙しくなるから」  振り返って店の明かりに照らされた拓海の顔を見据える。すると、拓海はいつものへらへら顔ではなくいつになく真剣な面持ちだった。  凛々しい、青年の面持ちだった。 「……そうなのか?」 「うん。まあ、そんだけ」  そう言って拓海は振り返り、ひらひらと後ろ手に左手を振りながら、夜の道へと消えていった。  私はその背中を視線で追ったが、彼の背中はしっかりと伸びきっていて、二年前に見た怯えた少年の背中とは似ても似つかなかった。  拓海が見えなくなってから、私は薄暗闇の中を自転車で駆けて行った。  行きとは少しだけ道を変えて、桜並木が有名な近所の河川敷へと自転車を走らせる。  桜が、見たかった。  私の心をざわつかせるあの惨めな薄紅色の花びらを、今は無性に見たくて仕方なかった。  住宅街を抜けて静かな夜の堤防へと辿り着き、堤防の坂を自転車を押しながらゆっくりと歩いていく。  息を切らしながら登っていくと、登りきったところで一気に視界が開ける。  ようやく見えた桜並木は、川に沿って右に緩やかなカーブを描く道に沿って、どこまでも続いていた。桜の花びらが夜の水面に浮かび、反射し、鮮やかな薄紅色で川が染め上げられている。  それは、この世ならざる場所へと続く道のようにひたすらに美しい景色で。  私の心は、ちっともざわついてくれなかった。  しばらくその景色を黙って見つめたのち、私は独りで交番へ向かった。  交番に着き、自分の机に腰を下ろし、ささっと日誌を書き終える。  すでに出勤していた遅番の浜口巡査に軽い連絡事項を伝えて挨拶を済ませると、私は一人帰路に就いた。  私の家まで、徒歩で約十五分。街灯も少なく、暗くて視界の悪い夜道を黙々と歩いていく。視界の端に映る空にはぶ厚い曇が広がっており、時折街灯の明かりがちらついて眩しかった。  ようやく家の前に辿り着き、玄関前の小さな階段を重い足取りで上がる。鞄から取り出した銀色の鍵を鍵穴に差し込み、ゆっくりと回した。  ドアをそっと開けると、玄関から続く廊下に人影を感じたような気がした。 「由香里……?」  思わず声を掛け、廊下の電気を点けたが、そこには何のインテリアも飾られていない無骨な廊下が広がっているだけだった。  はあと一つため息を漏らし、リビングへと重い足取りで向かう。リビングのソファの上にはまだ洗われていない洗濯物が山積みになっており、部屋の隅に置かれたごみ箱もすでにゴミで満杯になっていた。  持っていた鞄を適当に放り投げ、和室に向かう。仏壇の前で畳に膝を付き、手を合わせる。  今日は由香里の月命日だった。 ・・・ 「あたし、子供の名前は『拓海』がいいなあ」 「そうなのか?」 「うん。響きと、字が好きなんだ」  病院の個室でベットに腰掛けながら、由香里は嬉々としてよくそんな事を言っていた。  幼馴染だった由香里は、生まれつき心臓の病気を患っており、入院のために度々学校に来なくなり、退院して急に戻ってきたりを繰り返すような日々を送っていた。  そんな彼女に、随分と小さい頃から恋心を抱いていた私は、よく彼女に会いに病院に赴いた。私が思い出す彼女の姿は、大抵純白のベッドの上に腰掛けて微笑んでいる彼女だった。  そんな彼女といつしか恋仲になり、私たちは結婚した。  私たちの間で子供を設けることに、私はずっと反対していた。彼女の弱い体に無理をして欲しくなかったから。  しかし、どうしても子供が欲しいと言い張った彼女に結局は押し切られてしまい、長い努力の末に私達はようやく子供を授かった。  その時の由香里の喜びようは、それはもう大変なものだった。  由香里は毎日のように胎児に語り掛け、私も胎教について彼女からさんざん教示されたものだった。あの頃は、子供を持つ不安よりも、未来に向けた果てることのない希望の事で、二人とも頭がいっぱいだった。  しかし、そんな些細な幸せも、いつまでも続くことはなかった。  予定日から二月ほど前、私は朝からの交番勤務で有休を取っていたことで溜まっていた事務作業を自分の机でこなしていると、交番の置き電話が鳴った。  書類に目を通しながら受話器を取って耳に押し当てると、全く知らない声が、 「近本さん。奥様の胎盤が剥離して、様態が急変しました。至急、病院までお越しください」  と焦った声で伝えてきて、思わず私は受話器を床へと落としてしまった。  すぐに病院へと急行し、エントランス近くの階段を上がって手術室の前へ駆けていくと、すでに手術は終わっており、部屋の前には手術用の物々しい衣服を着た集団が立っていた。  彼らに手招かれるままに手術着を着こみ、部屋へと入っていく。  すると、奥のスペースに置かれた台の上には。  そこには、すでに動かなくなった由香里が横たわっていた。  余りにあっけない幕引きに、言葉が出なかった。  一言も発さず、涙も出ないまま、私は由香里の亡骸を延々と見つめ続けていた。  それからの事は、実は余りよく覚えていない。  いつの間にか自宅に帰っていて、気づけばソファに呆けたまま腰掛けていた。  虚ろな頭のまま、風呂に入り、ベッドへと潜り込んだ。目を閉じて眠ろうとしていると、不意に暗闇の中で私の名前を呼ぶ由香里の声が響き、私を見つめる彼女の笑顔が幾つも浮かんだ。同時に、彼女と私との間に生まれるはずだった赤子の放つ命の輝きが、深い闇の中に沈んでいったことを悟り、私はそこで初めて声を上げて涙を流した。  由香里が居なくなってからは、惰性の毎日だった。妻と子供を一度に失った私は、生きる希望を持てなかった。全てを投げ出したいと、何度も思った。  何年も何年も、ただ起きて、仕事をして、独りで眠りについた。  そんな死んだ日々の中で、私は拓海に出会った。  私と由香里の子と同じ名前で、もし生きていればほとんど同じ年齢の、孤独な少年。  何の起伏もなかった灰色の暮らしが、彼に出会ったことで再び色づき始めた。  私は、ただひたすらに、彼との繋がりを求めた。  誰かとの繋がりを切望していたのは、他でもない、私だった。 ・・・  あっという間に春が過ぎ去り、暑い日が増えていった。  夏場に近づくと人々もいらいらするのか、何かと些細な衝突が町内のそこかしこで増え、私は仕事に追われた。  気づけばもう随分と、拓海に会っていなかった。  私が仕事で忙しかったこともあるが、ここの所拓海の足は次第に交番から遠のき始めており、ちょっとしたいたずらもピタリと止んでしまった。交番の給湯室には彼のためのお菓子が大量に残されたままだった。  エアコンの効き始めた夕方の交番で、独り寂しさ交じりの感慨に耽っていると、交番のまん前で自転車が急ブレーキをかけて停まった。  タイヤが地面と擦れる音に驚きそちらに目を向けると、黒髪になった拓海が自転車にまたがりながらへらへらと手を振っていた。 「拓海。久しぶりじゃないか」  思わず声が上擦りそうになったが、なんとか普段通りの声をつくって拓海に語り掛ける。 「こんちわ、近本さん。お久しぶり」 「随分と顔を見せなかったけど、何してたんだ?」 「まあ、色々っすわ。それももうちょいで終わるけど」 「そうなのか?」 「ええ。したらまた遊んでくださいね」  そう言ってへへっと拓海がはにかむ。本当に、こいつは……。 「ああ、遊んでやるよ」 「ほんとすか‼じゃあ今度一緒にうちの校庭で花火でも上げようよ」 「上げるか馬鹿」  拓海をとっ捕まえようと拓海の方へと駆け寄っていくと、拓海はささっと自転車を走らせて逃げてしまった。左手をひらひらと後ろ手に振りながら、道を進んでいく。  すっかり傾いた西日が去り行く拓海の背中を赤く染め上げ、久々に目にした彼の背中は以前よりもさらに逞しくなって見えた。  私は一人交番に残され、拓海の姿を見えなくなるまで目で追っていた。  拓海はいつの間にか自立し始めていた。  去っていく彼の背中を見つめていると、胸が暖かくなっていくのと同時に、強く締め付けられるようにキリリと痛んだ。  私が彼にしてあげられる事は、もしかしたら少しずつ減っていくのかもしれない。そのうちに、彼は立派に独り立ちするようになって、この町からも出ていってしまうのかも分からない。  その時、私は一体彼にどんな言葉を掛けるのだろう。  そして私は、一体どう生きるのだろう。  頭の中で様々な感情が渦巻いていた。  いつまで経っても子離れできていないのは、どうやら私の方だった。     仕事を終え、独りで帰路に就いた。  家に着いて、鍵を使って玄関のドアを開くと、そこには空虚な廊下が広がっていた。由香里の影を感じることはなかった。  仏壇の前でお鈴を鳴らし、線香に火をつける。目を閉じて手を合わせていると、線香の匂いが鼻に染みて、僅かに涙が零れた。  目を開けて、仏壇の前から立ち上がろうとした、その時。  仏壇の上に置いていた小さな置物が立ち上がった拍子で転げ落ち、火をつけたばかりの線香に当たって、線香はぽきりと真っ二つに折れて灰の上に転がった。  どことなく嫌な予感がして、額を気持ち悪い汗が滴り、畳へと落ちていった。  次の日は日曜日だった。昼から勤務に入った私は付近のパトロールも済ませ、夕食を同僚の浜口と共に取っていた。夕食を取りながら昨日の線香のこと思い浮かべ胸を燻らせていると、突然卓上の置き電話がけたたましく鳴った。  ざわついた胸中のまま、置き電話を握る。  受話器を恐る恐る耳に押し当てる。  すると、聞こえてきたのは、 「こちら水木市警察署です。たった今、通報が入りました。水木町一丁目五番地二十二号の家宅で悲鳴が聞こえた模様です。至急、出動願います」  事件の訪れを知らせる、どこまでも無機質な声だった。
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