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三
浜口と走って現場へと急行する。市警からパトカーが到着するまでおよそ十五分、このまま走っていけばおそらく自分たちの方が七分ほど早く到着する。
走りながら、嫌な予感がずっと頭の中から離れなかった。
通報があった区域には、拓海の家がある。家を直接訪れたことこそなかったが、何度か近くまで送っていったことがあったから、はっきりと分かった。
お願いだ。どうか、この嫌な予感が外れてくれ。私たちには何も関係ないまま終わってくれ。
これ以上、私から何も奪わないでくれ。
右手に握りしめた携帯で何度も拓海に発信を試みたが、電話は一向に繋がらなかった。
ガラス張りの大きな美容院の角を右に曲がり、通報のあった場所が見えてくる。
そこには塗装の禿げかかった屋根からも分かるほど、老朽化の進んだ二階建てのボロアパートが建っていた。
アパートを取り囲む背の低いコンクリート製の塀の外には、既に数人の野次馬が集まっていて、みな思い思いの不安そうな表情を浮かべていた。
野次馬をどけて敷地内へと押し入り、駆け足でアパートの二階へと上がる。横並びの部屋の中で、一番右の部屋から異様な雰囲気を感じ取り、そちらへと恐る恐る向かっていく。
部屋の前に辿り着くと、ドアの横に掛けられた表札には『柏木』の名前が記されており、それを見た瞬間に一気に血の気が引くのを感じた。
ドアに向き合って、生唾を飲み込む。震える手でドアノブに手を掛けると、すでにドアの鍵は開いていて、ドアはゆっくりと開いた。部屋の中から零れた微かな明かりを頼りに、部屋の奥を覗き込む。
そこには、鮮血の池に横たわる彼の父親と、横に立ち尽くす拓海の姿があった。
しばらく放心していた私が意識を取り戻したのは、浜口が部屋の真ん中で呆然と立ち尽くす拓海に手錠を掛ける、その乾いた金属音だった。
「え…………」
拓海が虚ろな目で自らの両手に掛けられた手錠へと視線を移す。
そして視線が己の手にはめられた手枷の上に止まり、拓海は途端に怯え切った表情へと豹変し、私の方へと勢いよく首を向けて、叫んだ。
「ち、近本さん‼嫌だ‼助けてくれ‼」
「暴れるんじゃない‼」
浜口が俺に向かって駆け出そうとした拓海の足に自身の足を掛けてその場に組み伏せ、背中の上に膝を乗せて動きを封じる。一瞬だけ見えた彼の手には、べったりと粘度を持った紅血がこびりついていた。
「近本さん‼近本さああん‼」
泣き叫ぶ拓海の声が、頭の中で反響していた。助けを乞う悲痛な叫びが部屋中にキンキンと響き渡る。
私は、私に向かって叫び続ける、拓海の姿をただ見つめる。
私は、ずっとこの少年の成長を願ってきた、はずだった。
息子にあげられなかった分の愛情を注ぎ、共に語り合い、息子同然に大切に思っていた。
何もない、空虚な私にとっての、唯一の繋がりだった。
それなのに。
それなのに、私は。
私は、右腰に下げていた無線をそっと掴んで口の前へと運び、
「近本です。容疑者の身柄を拘束しました」
と、感情を失った機械のような調子で呟いた。
・・・
そこは、やや大きめの白い机とパイプ椅子が数個、ほの暗いスタンドライトしかない殺風景な部屋だった。
机を挟んで向かいには市警の大友警部がこちらを気遣うような微妙な表情で鎮座していた。
彼が言葉を発せないほどに、重苦しい雰囲気がその部屋に充満していた。
あの後、容疑者についてや事件現場の状況について報告するために浜口と共に水木市警察署まで出向した私は、心身ともに衰弱しきっており、昨日から何一つ話す気になれず、気づけば事件が起きてから二十四時間近くが経っていた。
市警もそんな私を気遣ってか、この部屋から私を追い出そうとはせずに、私が話し出すのを待っていてくれた。その間何度か担当者が変わったが、皆この部屋の異様な雰囲気に充てられたのか、しばらくしたら黙って部屋を去っていった。
私の胸中は、夜通し終わることのない苦悩によって締め付けられ続けていた。
さすがにこの部屋に来るのも一番最初と今回で二度目なので多少は慣れたのか、目の前の大友警部が軽く咳払いをしてからおもむろに口を開いた。
「近本君。……本当にご苦労だったな」
「…………」
「しばらく君には休暇を与えるから、何か気分転換でも――」
「あの容疑者の身柄は、今どこに」
「そ、それならばすでに県警の留置所に留置されている」
「そうですか」
私は汚れの付いていない白い机の上に目を落としてから、強く瞼を閉じた。
血の海に横たわる男の姿と、醜く歪んだ拓海の表情が、頭から離れなかった。
拓海の、助けを求めるために歪んだ表情が、涙に塗れて血走った眼をしたあの表情が、あれからずっと浮かんできては、その度に私は息ができなくなるほどの動悸に苛まれた。
私は、拓海から伸ばされたその手を払いのけるように、彼の救いを拒んだ。
彼には、私しか味方がいないというのに。
私にだって、彼しかいないというのに。
私は、彼を……。
一体どこで道を誤ったのか。拓海に初めて出会った時から?私が彼と父親の仲を取り持つことなくただ彼と関わっているだけだったから?
拓海は、いったいなぜ父親のことを。それも、全て私のせいなのか?
答えの出ることのない問いが頭に浮かんでは、幾つも幾つも積み重なっていく。
考えれば考えるほど、私の一つ一つの行動がみな、この事件に繋がっていたような気がしてしまう。
今すぐに、消えていなくなりたかった。
一度は失ったと思っていた息子に、再び巡り合えたと、そう思っていたのに。
息子を二度も失った私に生きるための気力なんて、もはや何一つ残されていなかった。
ふらつく足で立ち上がり、部屋から出て行こうとすると、後ろで警部が慌てて制止しようとしてきたが、私はその手を軽く払ってドアノブに手を掛ける。
力の入らない右手で何とかドアノブを回して扉を開くと、目の前には息を切らした浜口が胸を上下させながら佇んでいた。
「近本さん!お伝えしたいことが――」
「浜口、もう、いいんだ」
「え?ちょ、ちょっと」
浜口の隣を通り過ぎて行こうとすると、浜口が私の右肩に手を掛けて思いきり引っ張り、互いに向き直る。浜口が私の顔を正面から見据える。
「私は、もう、疲れたよ」
「近本さん、新しい情報が入ったんです。僕の話を聞いてください」
「もう、どうでもいいんだ。私はもう、生きていたって意味なんか――」
そう言ってなおも踵を返そうとする私の右頬めがけて、浜口が突如平手打ちをした。
打たれた頬がじんじんと痛み、熱を帯びていき、私は現実に引き戻される。
「拓海君のもう一人の父親でもあるでしょう、あなたは」
そう述べる浜口の目尻には涙が浮かんでいた。
「あなたは、今から僕がする話を聞き届ける義務があります」
「……分かった」
鬼気迫る表情を浮かべる浜口の勢いに押されて、私は黙って元いた部屋へと戻った。
新たにパイプ椅子を広げて座り込んだ浜口が、一度深呼吸をしてから切り出す。
「実況見分や聞き取りの結果、柏木拓海容疑者が父親を自身の手で刺したのは間違いないそうです」
「…………それが――」
「黙って聞いてください。ですが、新たに分かったこととしては、容疑者はある物を必死に守るために咄嗟の行動にでてしまったようです」
「ある物……?」
「これです」
そう言って浜口がプラスチック製の袋から慎重に取り出したものは。
私が由香里から貰ったものと同じブランドの腕時計だった。
思わず言葉を失った。
いつかの結婚記念日に由香里から送られたプレゼント。由香里が亡くなって、いつの間にか動きを止めてしまったあの腕時計と、よく似た腕時計が、血に塗れ、見るも無残な状態で袋に入れられていた。針はピクリとも動かなかった。
「これは、腕時計かね?」
「ええ、警部。容疑者はしばらく貯めていたバイト代でこの高価な腕時計を購入し、家で眺めていたそうです」
「バイト……」
拓海がこの所忙しかったのは、もしかして――。
あの夜のことを思い出す。拓海は普段の彼からは想像もつかないような真剣な表情を浮かべていた。
「ですが、帰宅した父親に見つかり、取り上げられそうになり、口論から揉み合いへと発展して……」
「ま、まさか……」
「ええ。その揉み合いの結果、容疑者は近くの包丁を掴んで刺してしまった、ということだそうです。被害者の父親も別の凶器を握っていたそうなので、正当防衛の線が裁判では争われることになると思われます」
浜口の話を聞き終えて、私は椅子からもたげ落ちて、その場にうずくまった。
拓海は、ずっと私のために金を貯めていたのか。
そして、あの腕時計を買って、私に渡そうとしている途中で、父親に見つかって。
不運にも、その父親の命を奪ってしまった。
拓海はそんなにも必死に、私のために、腕時計を……。
私は部屋の床に這いつくばるように、人目も憚らず、慟哭した。
叫び、喚き、涙で床を濡らす。
しかし、いくら声を張り上げ眼から涙が流れ落ちても、この胸の中にはち切れんばかりに広がった巨大な後悔は、少しも溶けて行かなかった。
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