カモちゃんの常識

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 一体、僕はどうすればいいんだろう。  誰か僕に正解を教えてくれないだろうか。  きっと、教えてくれないんだろうな。  それともいっそ、嫌なことは丸投げしてみんなとドッヂボールでもして暮らしたいなあ。 などと、ある種の現実逃避をしていると、斜め向かいに座った教頭先生に鋭い目で睨みつけられていることに気がついた。瞬間、僕の背中からは冷や汗が一瞬のうちに湧き出て、背筋も未だかつてないほどにピンと伸びきった。 「聞いていますか、鎧塚先生。鴨志田君の指導と注意のほどを宜しくお願いしますね」 「わ、分かりました」 「それではこれで本日の定例会議を終わります。ありがとうございました」  教頭先生の号令がかかると、狭い会議室に所狭しと集まっていた教師たちは一斉に立ち上がり、形式ばった挨拶を述べ各々立ち去っていく。  ほの暗い部屋にたった一人残された僕は、ただただため息をつくばかりだ。 ・・・  今年で僕の教師生活も三年目になるが、今年になり、ようやく小学二年生のクラスの担任を任された。これが人生初担任だ。  最初こそ意気揚々と張り切って色んなことに取り組んでいたものの、一学期の半ばにして僕は、担任として初めての壁にぶつかっていた。  事の始まりは、昨日。  昼休みの間に午後の算数で使う教材の準備を終えて、足取り軽く愛する我がクラスに向かっていた時だった。  北階段から二階に上がり、丁度一年生と二年生のクラスが並ぶ廊下に足を踏み入れた。すると丁度その時、廊下の一番奥に位置する僕の担任するクラスから女子三人が半泣きで飛び出してきて、僕の事を視界に入れるなり、 「せんせえ!カモちゃんが、けんたくんと!」 とまくし立ててきた。  それを聞いて僕も急いで教室に向かったところ、丁度教室の真ん中のスペースでカモちゃんこと鴨志田君と大林君が取っ組み合いの喧嘩をしているところだった。 「くそっ!ふざけんなよカモ!」 「おまえこそふざけんな!」  二人はとにかく相手の顔をつねったり叩いたり足を蹴ったりと、総合格闘技さながらの攻防を繰り広げていた。クラスの皆は二人を中心に取り囲むようにして距離を取り、なんとも不安気にそれを見つめていた。 「二人とも、止めなさい!何をしてるんだ!」  ひとまず喧嘩を止めなければと思って教室の入り口から大声で二人を叱りつけたその瞬間、鴨志田君が僕の声でびくっと止まった大林君の隙をつき、彼の顔面を思いっきり殴りつけた。正直、かなり綺麗なストレートだと思ってしまった。  大林君は殴られた衝撃そのままに後ろによろめいて尻餅をつき、その場でわんわんと泣き出した。  一方、鴨志田君は僕の顔を一度だけちらっと見たが、僕が彼を静止する前に周りを囲むクラスメイトの間を掻き分けて、もう片方の教室の入り口から一目散に飛び出して行ってしまった。  すぐに僕も教室を飛び出し、彼を走って追いかけた。廊下は走るなと常日頃から言っていたにもかかわらず、この日ばかりは僕もほぼ全力で走った。    鴨志田君の姿を追って北階段を下り一階に出ると、すでに鴨志田君の姿はなかった。  しばらく一階をうろうろと彷徨ったが鴨志田君はやはりどこにもいなかった。  すると、彼を探す僕の見た目があまりに怪しかったのか、昇降口の隣にある図書室の前で、司書の桜井先生が僕に怪訝そうに話しかけてきた。 「あの……。どうかしましたか?」 「ああ、桜井先生。鴨志田君がこの辺を通りませんでしたか?」 「鴨志田君?ああ、あの子でしたらさっき昇降口から校庭に向かってましたよ。なんだか急いでいたような――」 「本当ですか!ありがとうございます!」  桜井先生の言葉を途中で遮ってしまったが、とにかく僕は校庭へと走り出した。  昇降口から外へと出ると、校庭の外周に生えた桜にはすっかり葉が茂っており、五月らしい少し乾いた爽やかな風が僕の額を撫でつけた。  校庭に出ると校舎とは離れた所にある滑り台の上の部分に、鴨志田君が座り込んでいるのが見えた。息を切らせながら彼の下へ走っていくと、彼はぐすぐすと鼻を鳴らしながら潤んだ瞳を携えて、必死に涙をこらえている様子だった。 「鴨志田君。どうして大林君と喧嘩したのか、先生教えて欲しいな」 「…………」 「黙ってちゃ分からないよ。大林君との仲直り、先生も手伝ってあげるから、ね?」 「……なんでもないもん!」  そういって鴨志田君は膝に顔を埋め、黙り込んでしまった。  その後しばらくうずくまってしまった鴨志田君を説得し、なんとか一緒に教室に戻った。大林君は保健係の子が保健室まで連れて行ってくれたようだった。教室はなんとも言えない張り詰めた空気が漂っていたが、その日の授業は特に問題なく終了した。  授業が終わって、帰りの会までの間に鴨志田君を連れて大林君のもとへと向かった。隣を歩く鴨志田君はずっと俯いたままで表情は分からなかったが、足取りはずいぶんと重かった。  ノックをして保健室に入ると、大林君は保健室のソファで座りながら養護教諭の新村先生と談笑していた。こちらに振り返る大林君の額には真っ白なガーゼがついていて、よく肌の焼けた彼に貼られていると、強いコントラストを呈していた。  新村先生から特に異常はないことを伝え聞き、鴨志田君と大林君を一つ隣の応接室に入れて話を聞いた。 「二人とも、どうして喧嘩なんかしたの?」 と、二人をソファに座らせたのち、おもむろに僕は口を開き、厳かさたっぷりの低い声音で尋ねた。  大林君が一度ビクッと身震いをしたが、直ぐに興奮した様子で、僕に語ってくれた。 「きいてよせんせえ!カモのやつ、クラスで一人だけデュエマス持ってないんだぜ!」  「デュエマス?」 「デュエルマスターズってカードゲームだよ。さいきんはやってるんだ。」  大林君はクラスの中だと比較的目立っている方だが、どうもクラスで中心的な存在である鴨志田君の事をライバル視しているのか、彼につっかかることが多い。  今回もきっと、彼がカードを持ってないことを知り、大きい声でそれを囃し立てたのだろう。 「なるほどカードゲームか。でもね、大林君。それを持ってないからって人の事を馬鹿にするのは、良くないんじゃないかなあ。」 「で、でも!」 「でもじゃなくてね。大林君はそれを誰かに買ってもらって持っているかもしれないけど、中には買ってもらえない子だっているかもしれない」 「…………」 「そういう子とも仲良く遊べないと、せっかくいいカードを持っていてもみんな遊んでくれなくなっちゃうかも知れないよ」  途中から諭すように優しい口調に変えて大林君を叱ったが、大林君は目を真っ赤にして今にも泣きだしそうだった。  小学二年生にも分かるように叱るのは意外と難しい。「分かった?」と大林君に尋ねると、彼は一度だけこくりと頷いた。  次は、鴨志田君の番である。 「鴨志田君、バカにされたら悔しいのは分かるけど、人を殴るなんて絶対にダメだよ」 「…………せんせいはわかってないんだ」  そう微かにこぼす鴨志田君の唇は強く噛み締められ、握った掌は小さく小刻みに震えていた。 「分かってないって、何を?」 「…………ううん。なんでもない。けんたをなぐっちゃって、ごめんなさい。けんたも……、ごめんな」 「…………うん」  そういって鴨志田君は大林君の方に向き直して急に深々と頭を下げたので、僕は思わず呆気にとられてしまった。  ともかく、この件は何とかこれで片付いた。  この後、鴨志田君と大林君に仲直りの握手をさせた。二人ともまだ微妙に思う所はありそうだったが、小学生の喧嘩は大体次の日には忘れているものだろう。  きっとまた明日には、いつものようにわいわいと遊んでいるに違いない。  そして二人を連れて教室へ戻り、帰りの会が始まった。  しかし、僕は帰りの会の間、どうも釈然としない気持ちが喉の奥に引っかかったような、落ち着かない心地がしていた。  そもそもどうして鴨志田君はそのカードを持っていないのだろう。彼は成績こそ振るわないものの、明るくスポーツもできるのでクラスの中心的存在だ。そんな男子のリーダー的存在の彼がわざわざ仲間内で一人だけそのカードを買わない理由はない。それに、普段は特別気性の荒くない鴨志田君がそのことをバカにされただけで殴るということが、僕にはどうも納得が行かなかった。  帰りの会が終わり、大林君の家に電話をかけ、大林君のお母さんに事情を説明した。最初は軽い怪我をしたことに驚いていたが、理解のあるお母さんだったので、事はそこまで大事にならずに済んで内心ほっとした。  鴨志田君の家は電話をしても繋がらなかったので、近くに行う家庭訪問の際にその件について説明することにした。  そして、家に帰り、何とももやもやした気持ちのまま眠りに付き、今日を迎えたわけだが、なんとまたもや事件が起きてしまった。  今日の午前中、クラスのみんなにとっては初めての習字の授業での事である。みんなの前で墨汁の出し方や文鎮の使い方、筆の持ち方などのレクチャーをしながら、クラスを見渡していると、鴨志田君がいつの間にか教室にいないことに気が付いた。  不思議に思い、みんなが『おおぞら』と筆で書くのに苦戦する中、隣の席の西脇さんにそれとなく彼の所在を尋ねてみた。どうもこの授業が始まってすぐに保健室に行くと言って教室を出て行ってしまったらしかった。  この子たちが一年生の時の担任の先生と以前話した際に、鴨志田君は度々トイレや保健室で授業を抜けることがあったと伝え聞いていた。  今回ももしかすると、僕に無断で保健室に行くほどまでに、体調が優れなかったのだろうかと、少し心配になってしまった。  とりあえず、習字の授業を終わらせて業間休みになったところで、急いで保健室に向かうと、ソファには新村先生と教頭先生が腰掛けながら紅茶を啜っていた。  なんという誤算。まさか教頭先生が居たとは。  僕はこの教頭先生のことが苦手だ。配属されたその日からとにかく怒られた記憶しかない。彼の人を射抜くような鋭い眼光に曝されると僕はただ縮こまって、謝ることしかできなくなってしまう。たまに優しく教えてくれることもあるので、実際には部下思いの優しい人であることは分かるのだが、身に沁みついたトラウマはそう簡単に振り払えそうにはなかった。  反射的に背筋を伸ばして入り口の所で固まっていると、僕に気づいた教頭先生が尋ねた。 「おや、鎧塚先生。どうかしたんですか?」 「きょ、教頭先生。いえ、うちの鴨志田君がさっきの授業中から保健室に来ているはずなので、その様子を……」 「え、鴨志田君ですか?今日はまだ誰も利用してませんよ?」 と、新村先生が首を傾げると、教頭先生はいつものように鋭い眼光を僕に向けた。 「鎧塚先生。その鴨志田君という生徒、早く見つけてきて下さい」 「は、はい!」  びしっと教頭先生が僕の方を指差したので、僕は銃口を向けられたかの如く急いで部屋を飛び出した。  昨日のように鴨志田君を探して一階を彷徨っていると、これまた昨日と同じように図書室の前で桜井先生が僕を見かけるなり話しかけてきた。 「あ、鎧塚先生。今、丁度先生を呼びに行こうと思っていたんですよ。さっきの授業中の時間に、また鴨志田君が外にいってましたよ」 「ほんとですか⁉助かります!」  一刻も早く彼を探しに行こうと思ったが、一つだけ気になることがあったので、その場で桜井先生に尋ねた。 「そういえば、桜井先生はどうして鴨志田君のことをご存じなんですか?」  この学校は決してマンモス校というほどの生徒数ではないが、一年から六年までで三百人ほどはいる。毎年新しい生徒が来ることもあって、生徒全員の名前を把握している先生は少ない。まして、司書の桜井先生ならなおさらだ。 「ああ、鴨志田君はいつも元気に挨拶してくれますし、それによく図鑑を眺めているので覚えました」 「へえ、図鑑をですか」 「ええ。図鑑ばっかり眺めているんですよね、あの子。よく飽きないなと思うぐらい」  くすくすと手を口元に当てながら桜井先生は笑っていた。  それは知らない情報だった。  クラスではかいけつゾロリやずっこけ三人組のような定番図書が人気なので、てっきり鴨志田君もそういうものを好んでいるのだとばかり思っていた。クラスのみんなのことも、まだまだ分からないことだらけだ。  会話を早々に切り上げ、昇降口から校庭に出て周りを見渡す。  すると、またまた昨日と同じように、鴨志田君は滑り台の上で体育座りをしながら、太陽の位置さえ全く分からない分厚い曇り空を眺めていた。  彼のもとにたどり着き、声を掛ける。 「鴨志田君。どうして、嘘までついて授業を抜け出したの」 「……せんせえ」 「先生、怒らないから、言ってごらん」 「……だって、つまんないんだもん」  そういって彼は右手の人差し指で足元の砂をいじり、ぐるぐると渦巻きを作っていた。 「つまんないか。それは仕方ないな」 「……仕方ないの?」 「仕方ないよ。勉強が楽しいのが一番いいけど、全部が全部そうはいかないんだ。でも、鴨志田君が少しでも楽しくなれるように、僕も精一杯頑張るからさ」 「せんせえ……」 「一緒に教室に戻ろうよ、ね?」  そういって右手を上にいる鴨志田君に向かって差し出すと、鴨志田君は消え入りそうな声でうんと返事をし、おずおずと僕の手を握った。  それで、今日の残りの授業は鴨志田君もちゃんと聞いてくれていたのでひとまず一件落着と言ったところだった。  昼休みには、クラスのみんなに混じって僕も一緒に校庭でサッカーをしたが、鴨志田君は一人で何人も抜き去りゴールも決めてしまう活躍ぶりだった。また、鴨志田君はただ自分の活躍だけを考えているわけでなく、みんなが楽しめるように立ち回りも工夫していて、とても賢い子だと改めて感じた。  鴨志田君は終始笑顔を浮かべていた。やっぱり、鴨志田くんには笑顔が良く似合っていた。  しかしながら、放課後の定例会議で教頭先生に、鴨志田君が授業をさぼっていた件や、昨日の暴力沙汰について色々と質問攻めにされ、あげく彼に対しての指導不足を延々と説教される羽目になってしまったわけである。  一人残った会議室で、後ろの椅子に大きくもたれかかりながら、考える。  一体僕はどうすればいいんだ?  そもそも授業がつまらなくてさぼってしまうことを防ぐのは無理じゃないのか。しかも、算数や国語ならまだしも、習字なんて僕の関わる余地がほとんど無いじゃないか。  考えても考えても、それらしい答えは出てこず、ため息の回数が重なるばかりだ。  ひとまず、来週の家庭訪問で鴨志田君のお母さんに変わったことがないか尋ねるしかないと考えを決めて立ち上がり、部屋を出る。  教頭先生への恨みを込めるように、会議室の扉を強く締めた。
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