カモちゃんの常識

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・・・  そして、僕は今、鴨志田君の家の前にいる。ここまで何件かのお宅に上がらせてもらってきたが、鴨志田君の家には正直驚いた。  マンションなのに、案内人がいる。  まずマンションの全景を見上げて何階建てなのか全く分からないその大きさに驚いたが、部屋番号を入力してエントランスを開けてもらった瞬間に「お帰りなさいませ」と奥にいた紳士服の案内人に挨拶されて、僕はさらに面食らってしまった。  びくびくしながらエレベーターで三十二階まで上がり、鴨志田君の家を目指す。奥の窓から見える外の景色は、地平線が見えるまでに壮観な眺めだった。  鴨志田君の家に辿り着いて、インターホンを押して待っていると、出てきたのはどう見ても二児の母には見えないような若い綺麗な女性だった。 「鎧塚先生ですね。いつも息子がお世話になっております」 「いえ、とんでもないです。本日は宜しくお願い致します」  社交辞令もそこそこに家に上がらせていただくと、リビングはまるで芸能人のお宅訪問のように高級そうな家具やキッチンが広がっている。どうにも落ち着かない気持ちのまま、引かれた椅子の上に腰を掛ける。  とりあえず始めは学校での普段の様子や、みんなから信頼されていることなんかを話し、そろそろお暇しようかという時に、僕は恐る恐る本題を尋ねてみることにした。 「そういえば、誠知君に最近変わったことはないですか?」 「え、変わったことですか?うーん、特にないですが、どうかされましたか?」 「いえ、実は……」  僕は先日の二つの件をかいつまんで説明すると、お母さんは信じられないといった様子で目をしばたたかせていた。 「そんな……。あの子が他の子を殴るなんて……。授業もさぼるだなんて信じられません」 「どうやら殴ったのはカードゲームを持っていないことを馬鹿にされたことが原因らしいのですが、普段からそういったものは禁止されてるんですか?」 「カードゲーム、ですか……。いえ、特に禁止はしていないです。最近はテレビゲームもよくやっているみたいですし……」  てっきりカードゲーム類を一切禁止している厳しい家庭なのかと予想していたので、少しだけ驚いた。やはり、鴨志田君にはカードゲームを嫌う何らかの理由があるのかもしれない。 「先生、うちは両親とも忙しくてあまりあの子のことを見てあげられていないので、今回みたいに何か気づくことがあればすぐにお願いします。私たちもあの子と今一度よく話し合ってみます」  そういって鴨志田君のお母さんは先日の鴨志田君そっくりに深々と頭を下げたので、やはり親子なんだなあと感じてしまう。さすがにそのままでは気まずいので頭を上げてもらい、今度こそ家からお暇した。  帰る時は気まずいので案内人に合わないように裏の出口から帰った。 ・・・  そして次の日、国語の授業で『スイミー』の話を扱い始めた。『スイミー』という話は小学二年の国語の定番の話だ。  この話のあらすじは、赤い魚たちの兄弟の中で一人だけ黒いスイミーはいつもみんなから馬鹿にされていたが、ある日兄弟たちが大きな魚に食べられてしまいスイミーは一人ぼっちになって海を放浪することになる。そのうちに、スイミーは兄弟そっくりの赤い魚の群れに出会い、大きな魚におびえる彼らを元気づけ、自分が目の部分となることでみんなでさらに大きな魚の形を作りその大きな魚を撃退する、という話である。  昔から使われていることもあって何かとこの話は人気が高い。かく言う自分もこの話が好きで昔はよく読み返していた。  そんなこともあって懐かしく思いながら僕が最初の朗読をしていると、鴨志田君がいつになく真剣に教科書を眺めていることに気が付いた。そのあまりに真剣な眼差しに、鬼気迫る何かを感じて、思わず身震いしてしまう。  僕の朗読も終わり、いつものように教科書の「丸読み」を始める。順番が来た生徒が自分の担当の文を読み、句点が来たら座るの繰り返しが続いていく。  そして、鴨志田君の番になり、鴨志田君が立ち上がる。 「『そうだ、みんないっしょにおよぐんだ。海でいちばん大きな魚のふりをして。』」  鴨志田君が元気な大きい声でスイミーの台詞を読む。読み終えた鴨志田君はふうっと一つ息を吐き自分の席に座った。  するとそこで一度音読が途絶えた。そういえば今日は隣の西脇さんが熱で学校を休んでいるのだった。誰に彼女の分を読んでもらおうか考え、『スイミー』に対しては何故かいつになく真剣な鴨志田君にお願いすることにした。 「鴨志田君、西脇さんが今日お休みみたいだから、次の文も読んでもらってもいいかな?」  すると鴨志田君はびくっと大きく体を震わせ、明らかに狼狽えた様子を見せた。視線を右左と忙しなく動かし、その表情は段々と歪んでいく。 「え、僕、ですか……?」 「う、うん。お願いできる?」  鴨志田君はゆっくりと立ち上がったが、そのまま黙り込んでしまった。教科書を持った手が震えている。教室中の視線が彼に注がれていた。  教室を静寂が支配した。  隣のクラスの笑い声がやけに大きく響き、それと対照的にうちのクラスの冷たい視線がどんどんと浮き彫りになっていく。そして、段々とひそひそ話がクラス中で始まっていく。 「なんでカモちゃんだまってるの?」 「いいから早くよめばいいのに……」 「もしかしてお腹でも痛いのかなあ」 「いやあ、それはなくない?」 「どうしたんだろう、カモちゃん」  ひそひそ話はどんどんと伝播していき、ついにはクラスが喧騒で満ちていく。  そして、鴨志田君はついに自分の机に教科書を置き、僕に向かって、 「……せんせい、トイレにいってきます」 と言って、出て行ってしまった。  クラスの皆は一度しんと静まり返ったが、鴨志田君が教室を出てしばらくすると、封を切ったようにどっと笑いに包まれた。大林君は大きな声で、 「あいつぜったいウンコだぜ!あとでみにいってやろ!」 と男子に呼びかけていた。  これは一体どういうことなんだろう。  どうして、鴨志田君は突然読むのをやめてしまったんだ。考えれば考えるほど、分からなくなっていってしまう。  担任としてクラスの皆の事を理解しなければいけないのに、彼の事はどんどんと謎が深まっていってしまう一方だった。   ・・・  今日の授業も終わり、五時のチャイムが校庭のスピーカーから流れる。  そんな中、僕は職員室の自分の机でみんなの宿題の漢字ドリルの丸付けをしていた。あ行の人の分が終わり、鴨志田君のものを開く。鴨志田君の漢字ドリルは、彼の快活なイメージに反した大人びた綺麗な字でびっしりと埋められていた。  鴨志田君。君は一体何に悩んでいるんだ。  考えろ、考えるんだ。  これはきっとクラスの担任として、僕が自分で気づかなければいけない事だ。  そして、僕が自分で越えなければいけない最初の壁なんだ。  一旦、丸付けを止めて、ふと職員室の端にある本棚に向かう。ふと、本棚の中の児童心理学の本に目が留まった。  それをそっと取り出して、近くのソファに腰掛けて眺めていると、部屋の端の広いスペースに陣取っている教頭先生がこちらへと近づいてくるのが見えた。  そんな、何も怒られることはしていないのに。 「鎧塚先生。お勉強されているんですか?」 「は、はい。そうです。先日の鴨志田君の件で、色々と考えていまして」 「ほお。それは感心ですね。何か彼の事で悩んでいるのですか?」 「実は……。彼が取る行動の意味というのが、僕にはさっぱりで」  僕が教頭先生に最近の鴨志田君の不可解な行動のことを説明すると、教頭先生は少しだけ考えるような素振りを見せたのち、自身の机へと帰っていった。  そして、何やら分厚い一冊の本を読みながらこちらへと戻ってきた。 「なるほど……。おそらく鴨志田君は……」 「何か分かりますか?」 「ええ、一つ心当たりがあります」  教頭先生の意外な返答に驚きを隠せなかった。早速話を聞こうと口を開きかけた僕だったが。  そこで、少しだけ口をつぐんだ。  僕は、しばらく考え込んだのち、小さく首を振りながら教頭先生へ告げる。 「……いえ、やはり大丈夫です。僕自身が担任として、解決したい問題なので」 「……成長しましたね」  教頭先生はふっと息を吐き、いつに無く優しげな瞳を僕へと向けた。  開いていた本をそっと閉じ、先生は話を続ける。 「それでは、一つだけアドバイスを。先生はおそらく、自分の中の常識を疑ってみるといいかもしれませんよ」 「常識を……?」 「そう、常識を、ね。それでは失礼」  そう言い残して教頭先生はひらひらと手を振りながら、職員室から出て行ってしまった。  やはり話を聞いておくべきだったのではないかと、少しだけ後悔が残った。  正直、僕には教頭先生の一言で、ただ謎が増えただけにしか感じれなかった。 ・・・  仕事を終え、自分の家についても、大きくため息が出てしまう。  先ほどの教頭先生のアドバイスの内容を考えていても、全く話は進んでいかなかった。  テレビをつけて、前に置かれたローテーブルにまだ丸付けの終わっていない宿題を並べる。テレビは、この時間にはお決まりのご長寿番組を映していた。今の時間は世界各国のドキュメンタリービデオのようだ。  テレビは聞き流しながら、丸付けはほどほどにして、ひたすらに考えに耽る。  鴨志田君はどうしてカードゲームを持っていないのか。そして、温厚な彼がなぜ大林君を殴るまでに怒ったのか。  鴨志田君はなぜ習字の授業だけさぼるような真似をしたのか。  鴨志田君はなぜ音読の続きを読めなかったのか。  そして、常識を疑えとは、一体どういう意味なのか。  考えれば考えるほど見当違いな方に推理が進んでいっているような気がして、気が滅入ってしまう。赤ペンを握っている右手に思わず力が入ってしまう。  駄目だ、分からない物は分からない。  明日、不恰好ではあるが教頭先生にもっとヒントをもらえるように頼んでみよう。  一度テレビでも見て、気を紛らわせよう。そう思って軽く伸びをしてからテレビの方を見て、思わず僕は。  右手に握っていた赤ペンを床に落としてしまった。 ・・・  翌日、僕はある一つの答えに辿り着いていた。  しかし、正直この答えは最後の決め手に欠けている。何かもう一つ、鴨志田君が行動を起こせば、この推理はきっと確信に変わる。  悶々とした気持ちを抱えながら、午前中の授業は終わり、午後のホームルームの時間になった。この時間は七月にある文化祭でやる出し物の打ち合わせすることになっている。  うちの文化祭は小学校ながらも、地域住民もそこそこ来場するほどの規模で開催しており、クラスごとの出し物は毎年全ての教師が己の威信を掛けて仕上げてくる、勝負の場である。  うちのクラスで何をするかを多数決で決めようとすると、ほぼ満場一致で寸劇をやることになった。しかし、鴨志田君は最後まで縁日がやりたいと言い張っていた。  この時点で僕の予想はほぼ確信に変わっていた。  間違いない、彼はきっと――  次に、みんなで話し合って寸劇での役割を決めていく。人気者の鴨志田君は皆から主役に推薦されていたが、彼はとことん反対した。彼はずっと小道具係がやりたいと主張し続けた。  頑なに鴨志田君が首を縦に振らないので、業を煮やした大林君が、 「なんだよカモ!みんながおまえがいいってんだからやればいいだろ!」 と大声で鴨志田君に怒鳴りつけると、鴨志田君は唇を震わせながら、 「うるさい!なにもしらないくせに!」 と言って、教室を走って出て行ってしまった。  不意を突かれて出遅れてしまったが、僕も続いて走り出す。教室から出る前にみんなには話し合いを続けるように言い残して、教室を出る。  もう迷いはない。きっと鴨志田君はあの場所に行く。  北階段を下りて、図書館の脇の昇降口から外に出る。図書館の前を通る際に桜井先生が外を指差すのが見えた。  校庭を走る鴨志田君が見える。その後ろを、追いかけていく。  空は雲一つない青空で、太陽が容赦なく照り付けており、じわじわと頭から流れ出る汗が左眼に入って痛かった。  滑り台にほぼ同時に辿り着いた。鴨志田君がカンカンと足音を立てながら滑り台を上っていく。その下で僕は、膝に手をついて息を整えながら、彼に向かって切り出した。 「鴨志田君。先生はね、分かったことがあるんだ」  滑り台の上で体育座りをしようとした鴨志田君の体がびくっと大きく震えて、動揺しているのが分かった。僕が彼のことを見上げていると、一際潤んだ瞳をした鴨志田君と目が合う。 「全然気づいてあげられなくてごめんね。君は――」  息を一度大きく吸い込んで、そして、僕が導きだした答えを吐き出す。 「君は、文字が分からないんだね?」
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