隣人よ、愛を囁け

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隣人よ、愛を囁け

 瘦せっぽちの野良猫が居たら抱き上げてミルクをあげることぐらい、誰でもするだろう?  その子を初めて見たときの印象は、まぁなんていうか、そんな感じだった。 「こいつ。理久(りく)っての」  マスクで顔を半分覆い隠したその子の頭に、ぽんとてのひらを乗せて、友人の黒瀬(くろせ)がそう言った。  黒瀬とは高校のときからの付き合いだ。  こいつの仕事は刑事で、ここ数年音信不通だったから、俺はてっきり殉死して二階級特進でもしたものかと思っていた。  それが最近になってひょっこり顔を見せたかと思うと、犯罪じゃないかと疑うほど若い恋人を作っていたのだった。  こいつ……ほんとにどこでナニをしてたんだか……。  黒瀬の恋人は(あずさ)という名で、おぼこいナリをしているがちゃんと成人済みだという。  そしてこの度、その梓の友達だという子を、黒瀬が紹介してきたのだった。  理久、と名乗ったその子はだぼだぼのパーカーを着て、大きな目でこちらを伺うようにチラと見上げてきた。  マスクを着けているため顔の全貌はわからないが、その目つきが実家のネコを思いださせて、俺のこころはなんだか和んだ。   「おまえんトコ、バイト募集してただろ?」  黒瀬がそう言ってコーヒーを啜った。  いつもは喫煙可能な煙たい喫茶店にしか行かないくせに、なぜだか今日は小洒落たカフェに俺を呼び出したのだった。  だからだろうか、口寂しそうにちびちびとコーヒーを飲んでいる。   「まぁ、募集してるっちゃしてるけど」  俺は紅茶を飲みながら答えた。    俺の仕事はコンビニの店長だ。  全国展開しているフランチャイズではなく、地域密着型のこの界隈でしかやっていないような小規模のコンビニだ。  自分で言うのもなんだが、俺の生まれた白川家は金持ちで、親父が道楽として手掛けたコンビニを、三男の俺が継いでいる、というわけである。  だからクソ真面目に二十四時間なんて開けていないし、人手が足りなければ臨時休業するというような、やる気のないコンビニなのだった。 「この理久を雇ってくれないか?」  黒瀬が前のめりになって、そう言った。  俺は彼のとなりでちまっと座っている野良猫のような風情の子どもをしみじみと眺めた。 「こいつは無愛想だが真面目で、仕事に手を抜いたりは絶対にしない奴だって俺が保しょ、あ痛っ!」  話しの途中で黒瀬が顔をしかめた。  まったく関係ないが、こいつは昔から色男だったけれど、音信不通から戻ってきた後はなんというか……男の色気のようなものが増しているように見える。こいつってこんな顔だっけ? と昔なじみの俺が思う程度には印象が変わった気がする。  あの若い恋人の影響なのだろうか? 「ちゃんと説明しろよ、おっさん」  不意に、不機嫌な声が響いた。  ん? と思って見てみれば、理久がマスクの下で唇をもごもごと動かしていた。  黒瀬が眉をしかめて身を屈め、ふくらはぎの辺りをさすっている。 「順番に言おうと思ってたんだよ。蹴ることないだろうが」  ぼやいた黒瀬が、改まったように俺を見てきた。 「実はな」 「なんだよ、訳あり? やくざの坊ちゃんとか紹介されても困るぜ?」 「バカかおまえ。そんなわけないだろうが」  片頬に苦笑を(よぎ)らせて、黒瀬はまた理久の頭にポンと手を乗せた。 「こいつ、体が弱いんだ。日常生活はなんとか送れるようになったが……すぐ熱も出すし呼吸器も弱い」  なるほど、いつもの煙たい喫茶店に行かなかったのはそういうわけか、と俺はひとり納得した。 「ひとり暮らしするだけじゃ飽き足らず働きたいとか言い出すから、とりあえず信頼の置ける奴のところで預かってもらえないかと思ってな」 「それで俺のところに」 「おまえのトコなら、がつがつしてねぇし、突発休も大目に見てくれるだろ?」 「まぁそれはいいけど……」  俺は顎をさすりながら理久を見つめた。  黒瀬に頭をわしゃわしゃと撫でられているのに抵抗もしない。本当にネコみたいだ。   「でもその子、ひとり暮らしって……もしもバイトの途中で具合悪くなったらどうすんの? おまえ、連絡つかないじゃん」 「梓が居るから大丈夫だ。理久は俺たちの家の隣に部屋があるから。こいつがひとり暮らしするってなったときに、梓が大反対してな。うちの部屋が余ってるから同居しろって言ったのに、それをこいつが突っぱねるから……折衷案で隣に住んでもらってる」  ははぁ、と俺は頷いた。  黒瀬は歳下の恋人にメロメロで、新婚ほやほやの家に誰が好き好んでお邪魔するというのか。   「じゃあいいや。いつから来れるの?」  俺がそう言うと、理久の目がまん丸になった。 「いいんスか?」  中途半端な敬語がマスクの下から飛び出す。 「なにが?」 「そんな簡単にオレなんか雇って」 「まぁ黒瀬の紹介だし、べつに断る理由がないしね~。とりあえずやってみて、体が無理そうだったら相談してよ。他になにか仕事がないか探してあげるから」  にっこりと彼に微笑みかけると、理久の目がますます大きくなって……それから彼は、ぴょこんと頭を下げた。 「頑張るんで、よろしくお願いします」    彼のその後頭部を、黒瀬がまたくしゃりと撫でる。  俺も一回撫でてみたいなと思うぐらいに、理久の髪はやわらかそうだった。  翌日に早速、理久がコンビニに来た。  俺はバックヤードのロッカールームに彼を案内し、Sサイズの制服を手渡す。  理久は今日もだぼだぼのパーカーを着ていたのだが、制服に着替えた彼の体を見て俺はちょっとぎょっとした。  あまりにガリガリだったからだ。  俺の視線に気づいたのか、理久がちらと自分の腕を見て、 「服で誤魔化してるんス」  とマスクの下でぼそぼそと言った。 「誤魔化す?」 「梓が……友達がオレが痩せると心配するから、大きめの服着て。でもちゃんと食ってんスよ。最近は体調もいいし」  クビになったら困ると思ったのか、早口で言い募ってくる彼を手で制して、俺はにっこりと笑った。 「売れ残りのお弁当とか持って帰っていいから、もうちょっと太りなね」 「はぁ……そんなことしていいんスか?」 「俺の店だから」  俺の返事に理久が半眼になった。ちょっと呆れたようなその目つきが可愛くて、俺は昨日の黒瀬のように彼の頭にポンと触れた。 「……っ」  その瞬間、理久が俺の手を払いのけた。  俺は行き場を失った手をひらひらと振って、野良猫のような理久を見下ろした。 「ごめん。昨日黒瀬がきみを撫でてたから」 「…………こっちこそ、すいませんでした」  棒読みの口調で理久が詫びて、鼻先のマスクを上に引き上げる。  そのまま彼は、懐かない猫のようにふいっと顔を背けてしまった。      初日から長時間労働はしんどかろうと、とりあえずは三時間の勤務から様子を見ることにする。  自慢じゃないが俺の店は人間関係がいい。  パートのおばちゃんもバイトの子たちも笑顔で骨惜しみなく働いてくれる。まぁよそのコンビニより時給いいしな、うちは。  今日は理久に午前の勤務に入ってもらったから、相棒は五十代のおばちゃんだったが、夕方は理久と同年代の子が多いことを俺は説明したが、理久はあまり興味がなさそうだった。  誰と働くか、よりも、どんな仕事なのか、の方に意識が向いているようである。  とりあえず普段の業務はおばちゃんに任せて、俺はレジ打ちなどを理久に教えていった。  自前のメモ帳片手に、理久は真剣な顔で聞いていた。  昼時になると昼食を買うひとたちが列をなす。  俺は理久への研修を一旦やめて接客に集中した。  俺の横についていた理久は、俺が指示する前に袋を用意したり、並んでいるひとが弁当を手にしているのを見たら箸やスプーンなどを出したりと、目ざとい一面を披露した。  この子、中々の掘り出し物かもしれないなと俺は内心で黒瀬に感謝の言葉を告げた。  一通りの接客が落ち着くと、約束の三時間を超えていた。  俺は慌てて理久へと、 「初日からごめんね。もう上がっていいよ」  と声を掛けた。  理久が俺にぺこりと頭を下げた。 「ありがとうございました」  俺は彼のそのやわらかそうな髪を見ながら、 「りっくんさぁ」  と声を掛ける。  理久が眉を寄せた怪訝な顔になった。 「なんスか、その呼び方」 「かわいいじゃん。りっくん。俺にもあだ名つけていいよ」 「……オレ、店長の名前知らねぇっス」 「あれ? 言ってなかったっけ? 俺はね、智三(ともみ)。白川智三。三男だから『み』は『三』の字ね」 「はぁ」  めちゃくちゃどうでもよさそうに相槌を打たれた。  俺のことなんか欠片も興味がないんだろうなと思うとなんだか可笑しくて、俺は笑いながら言葉を続ける。 「りっくん、一回マスク外してみてよ」 「は?」 「りっくんの顔、まだちゃんと見たことないからさ」 「べつにいいっスけど……この店、マスク禁止とか言わないですよね?」 「言わない言わない。いまだけでいいから」  俺がそう言うと、理久は耳に掛けているゴムに指を引っ掛けて、片側だけはらりと外した。  マスクを外したときに印象が変わるひとは多いけれど、理久はなんというか、俺の想像通りの顔をしていた。  いや、想像よりは鼻が小さいかな?  痩せて繊細な顎と、色の薄い唇。こういう、病気を想像させるような部位を彼は隠して生活しているのかもしれなかった。  俺は昔から、瘦せっぽちの野良猫を見るとご馳走をたらふく与えてぷくぷく太らしてやりたくなる性質(たち)で。  このときもなんだかちょっと胸がうずうずした。  片耳にマスクをぶら下げた理久の目が、不意にきょろりと動いた。  俺の背後の……店の自動ドアの方を見て、大きな瞳が一瞬きらめいた……ように俺には見えた。  なんだろうと思って振り向くと、様になったスーツ姿の男がドアをくぐったところだった。  黒瀬だ。  友人の姿を確認して俺が理久に視線を戻すと、理久がなんとも言えぬ表情で白っぽい唇をわずかに動かし、そうとわからぬほどのごくささやかな笑顔になった。   「よぅ。どうだ、初バイトは」  レジカウンターに片手をついて、黒瀬がそう声をかけてくる。  理久がそちらへと歩み寄り、 「なんだよおっさん、暇なのかよ」  と憎まれ口を叩いた。  黒瀬が眉を寄せ、理久の頭にポンと手を乗せる。  理久はうるさそうに肩を竦めたけれど、黒瀬のその手を、払いのけたりはしなかった。    なるほどな~、と俺はその様子を見ながら思った。  なるほどなるほど。猫くんは黒瀬が好きなのか。  けれど黒瀬は、理久の友達の梓の恋人だ。  俺が梓と会ったのはたったの数回だけれど、あれは裏切れないなと感じた。  梓のあの、黒くひたむきな、子犬のような瞳。  あんな目をした子を傷つけたり裏切ったりすることができるのは、よっぽどの悪人か感覚が鈍磨した奴かのどちらかだ。  梓の親友だという理久がそんな類の人間だとは到底思えない。   いじらしいねぇ、と理久の顔を見ながら俺は顎をさすった。    道ならぬ恋に身を焦がして、親友のために気持ちを隠そうしている理久。  俺から見ればバレバレだけど……黒瀬の奴は気付いているのだろうか?  昔から鈍い方ではなかったように記憶しているけど……でも、気付いてたらあんな気安いスキンシップはしないだろう。そういう線引きはきちんとする男だ。  たぶん黒瀬にとって理久は、庇護の対象なのだと俺は結論づけた。  無条件にまもるべき存在。  それは理久の体が弱いから、という理由に加えて、愛すべき梓がそれを望んでいるから、というのもあるのだろうなと、俺は勝手ながらそう思った。 「おまえ、マスクはちゃんとしとけよ」   その黒瀬の手が、理久の片耳にぶら下がっているマスクへと伸ばされようとする。  おっと、と俺は理久の後ろから黒瀬より先にマスクに触れた。 「俺が外して顔見せてって言ったんだよ。ごめんね、りっくん」  詫びの言葉を口にしながら、理久の頬のラインを辿るようにして俺は指に掛けたマスクのゴムを彼の耳にそっと通した。    理久のすぐ背後に寄り添うように立った俺に、黒瀬の目がわずかに見開かれた。  俺の行動を品定めするように、正面から対峙したヤツの眉間にしわが寄る。 「マスクぐらい、自分でできますって」   ぼそり、と呟いた理久が、俺が装着してあげたマスクの位置を微調整した。 「じゃあオレ、着替えてくるんで。おっさん、先帰ってなよ」 「いや、待ってる」 「暇人かよ」 「梓ももう来るってメールがあったからな」  ポケットから出したスマホの画面を、黒瀬が理久に示した。  理久が一瞬黙り込み、 「過保護かよ」  とぶっきらぼうに吐き捨てた。  いつもの悪態に見せかけて、そこに少しの苦みが混ざっているように、俺には聞こえた。  彼がくるりと体の向きを変え、俺の方を見上げて軽く頭を下げる。 「店長、今日はありがとうございました」 「どういたしまして。また明日も待ってるね」 「はい」  短く頷いた理久の目は、あっという間に俺から逸らされた。   「りっくん」  思わず呼び止めた俺に、猫のような目がまた向けられる。 「なんスか?」 「あ……いや、俺と黒瀬、同い年なんだけどさ」 「はぁ」 「俺のこともおっさんって呼んでいいよ」  意味不明な対抗心が口から漏れてしまった。  案の定理久が、なに言ってんだコイツ、みたいな表情をした。 「仕事先の上司をおっさんとか、ふつう言わねぇと思うけど」  マスクの下でぼそりと話した理久が、少しの間を挟んで言葉を付け足した。 「それに、店長の方がおっさんより若く見えるし」  遠回しにでもなく黒瀬をディスった理久に、 「おい」  と黒瀬の突っ込みが飛ぶ。  情けない顔をした黒瀬を見て、理久が眉間をくしゃりとさせて笑った。  なんだその可愛い顔は。  けれど、次に俺に向けられた顔からはその笑顔は消えていて。 「じゃあ、また明日」  ひょこんと頭を下げてバックヤードに戻ってゆく理久の瞳には、俺はやはり単なる景色の一部としてしか映っていなくて。  あの子の目が、黒瀬ではなく俺を映して笑うようになればいいな、と。  俺はなんだか渇望に近い感情が胸に湧き出してくるのを感じた。    一目惚れ、なんて。  自分とは無縁の感情と思っていたけれど。  野良猫のようなあの子を手懐けたい、と俺の本能が叫んでいる。  あのやわらかな髪を撫でて。  たくさんの美味しいものを与えて。  俺の腕の中で。  黒瀬のことなんて考える暇もないぐらい、たくさんの。  たくさんの愛を囁きたい、と。  俺は年甲斐もなくそう思い、胸を熱くしたのだった……。  END                      
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