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5,種①
黒い種を撒いた。早く芽が出るように歌を口ずさみながら。水などやる必要は無い。光など浴びせる必要も無い。ただ黙って見守るだけ。一度出た芽は誰も見ていない間に伸び、やがて蕾を付ける。その日まで、私だけが見守ればいいだけ。
「オーナーと寝た」
紀子の言葉に驚いたフリをした。気付いてなかった?と聞かれ、もちろん気付いてなかったと答えた。
「最初は今年の、あの大雨の日。
向こうから誘ってきたんだけど…」
「…」
あの日は私が生理だった。
店で話してたらキスしてきてしつこく誘われたけど、出来ないことを伝えたら明らかに萎えてた。最低だなと笑った。笑いながら考えてた。果たして自分は何番目の女だろう、このあと何番目の女のところに行くんだろう…。むしゃくしゃしてキスのついでに肩にしっかりマークをつけた。ただの愛撫だと思い込んでいた彼はマークには気付かなかった。
だが、これから誘う何番目かの女は必ずそれに気付く。気付いた女はきっと、私が誰かと考えるだろう。解かれることのない呪縛に自分から飛び込むだろう。そうなればいいなと思った。
「肩にね、キスマークがあって」
ズズズッ。
アイスコーヒーを啜る音をわざと響かせる。
「…奥さん?」
「…の可能性もあるかもだけど、たぶん、他の女じゃないかって」
「え、いつ見たの?」
わざとニヤニヤしながら茶化して聞いた。
「やってるとき…」
「んふっ!ゴホッゴホッ」
まじか。
思わず吹き出したのを誤魔化して咳き込んだように見せた。笑かすのもいい加減にしてほしい。これは狙い通りすぎて、紀子のショックを考えると可笑しくて仕方ない。
「ごめん、気管に入って、、
それは…傷付くよね…」
「うん……
だから同じ場所、ちょっと外れたところに私も付けたの、キスマーク」
「……で?」
「それからは、無い」
「一度だけ?」
「うん、結局嫁だったのか、女だったのかも分からなくて。
実はちょっと、茅野さんかとも思ってた」
「なんで?」
紀子が眉を下げて笑う。
「なんか、一時期怒ってた気がしたから、茅野さん」
「なんで、怒ってない」
そんなの、怒るなんて…嫁でもない私が?あなたにも、私にも、そんな資格などない。相手が邪魔なら蹴落とせばいいだけ。
「誘ってみたら?もう一度」
「えー、ムリムリ。断られるでしょ」
「明後日、空いてるよ、オーナー」
「そうなの?」
「予定が変わって暇だって昨日言ってたから、今連絡して誘ってみれば?」
携帯を取り出した紀子が文字を打つのを何気ない顔で見守る。
黒い雨を見たことはないけど、きっと今私だけの空は真っ暗で、そこから大粒の黒い雨が降っているだろう。その雨が染みる土に私は指先で小さな穴を掘った。そこへ黒い種を撒く。撒いてしまえば誰も気づかない。上からまた土をかぶせてただ芽が出るのを静かに待てばいいだけ。
返事は店を出る頃に届いた。素っ気ない返事。遅い時間なら、と。
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