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5,種②
翌朝、出勤して事務所の扉を開けると奥から女性の声がした。咄嗟にカメラの死角に入った結は身を潜ませ聞き耳を立てる。
「どうだか」
奥さんの声だ。可愛らしくて特徴のある声。普段は平日の昼間に2号店の管理を担当している奥さんが、本店であるこちらの店舗に顔を出すことは特に珍しいことではない。出勤したらそこに居たという状況も経験済みだ。
「は?」
オーナーと二人?
それにしても裕一の声はすでに怒りを含んでいる。職場であることに配慮して声を抑えているのが分かった。
「……約束したのに」
呆れと悲しさを込めた恨めしい言い方だった。
「仕方ないだろ、仕事なんだから」
「おかしいでしょ。急に!」
結は後ろの壁にもたれ、会話から内容を推察した。奥さんは明日急に予定が入ったオーナーに怒ってるのだろう。当然だ。明日は奥さんの誕生日で、二人の結婚記念日なのだから。
「もうスタッフが来るから、早く帰れよ」
冷たい声で突き放す。自分が悪い癖に酷い男。
一旦扉を閉めて外へ出た。きっと奥さんがすぐに出てくるだろう。このタイミングでわざわざ三人鉢合わせる必要はない。私の存在は気にも留めないほど遠い場所へ、出来るだけ長く隠しておかなければならない。顔を知ってる程度。挨拶程度。それくらいでなければ。確かな印象など残してはならない。
開いた扉の向こうから奥さんが出てきた。ゆっくりと歩き出す。すれ違い様に会釈をした。
「おはようございます」
「っ、おはようございます」
幸い、奥さんの方から目を逸らしてくれた。赤い顔をして、怒りや悔しさを押し殺して、それでも優しげに声を抑えて。本心を隠して。今から笑顔の仮面を着けて2号店で仕事をするのだろう。しかしその2階は私と裕一の秘密の隠れ家でもある、あの場所だ。自分だったら気が狂う。恐ろしいほど酷い仕打ちだ。
「おはようございます」
事務所に入ると裕一がパソコンに向かっていた。
「おはよう」
「何話してたんですか」
「ん?何が?」
「奥さん」
一瞬、どう答えようか迷ったような顔つき。すぐにいつも通りを装って結の腰に手を回す。
「家の話」
「家の話…へぇ」
拗ねたような顔で見つめると嫉妬してると思ったのだろう、誤魔化すように笑った。
「オーナー、明日会う?」
「ん?」
「明日、夜、予定が空いたんです」
パソコンのキーボードを片手で押す音がカチカチと響いている。裕一は表情を変えずに言った。
「んー、何時?」
「20時とか」
「あー、19時くらいまで打ち合わせで、たぶん飲みに行くから…」
知ってる。
その後紀子と約束していることも。
「そうなんだ…じゃあ仕方ないですね。
お店、どこ行くの?」
「いつものとこ、たぶん」
「あぁ、あそこ美味しいですよね」
その店は奥さんも知ってるところ。前にそこの店長とオーナーの話をしたことがある。仕事の後や、たまに家族でも来店すると聞いていた。
「私も行こうかな、誰か誘って」
その場にしゃがんで顔色を伺うように見上げると、悪い顔をしていたのだろう、裕一がそれよりも悪い顔で笑った。
「いいよ、おいで」
よく言う…
この男は本当に、クズ。
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