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5,種③
「おはようございます」
「あっ!結ちゃんおはよう!
ねぇ、聞いた?辞めたって紀子ちゃん」
「え?」
「あぁ、結ちゃんも聞いてなかったんだ。
急に辞めちゃったらしいよ」
「…なんで、ですか?」
「さぁ…一身上の都合、ってやつ?」
「…そうなんですか…」
パートの吉村さんは情報通だ。誰かが辞めたらその理由を突き止めようとし、ある事ない事どこからでも掻き集めて噂の種にする。紀子の"一身上の都合"はその膨れ上がった噂に乗ってそのうちあろうことか核心に迫るだろう。
「バレちゃったんだ…」
更衣室に入り、思わず呟いた。
何もしなくても撒いた種が花咲いた。いつか読んだ小説みたいにドラマチックな展開などなかったけど、私が期待した通り、彼の奥さんはなかなかやってくれる。
揉めただろうか。乗り込んだんだろうか。紀子はどんな仕打ちに合ったのだろうか。聞きたくて堪らない。
どうしたの?と、紀子にメッセージを送った。しばらくして仕事中に返信が届いたのは気付いていたが、店を閉めた後の事務所で作業をしている裕一の隣に立ってから開いた。内容を読んで、スマホを手にしたまま声を掛けた。
「オーナー」
「…うん?」
優しい声で裕一が返す。この声を知っているのは私だけかもしれないと、ときどき思う。
「なんか、ありました?」
「なんかって?」
パソコンのキーボードを打ち、画面を見ながら帳簿を管理している。
ここには二人以外、もう誰も居ない。
「紀子と、奥さんと」
いつもほとんど変わらない表情が、それでも一瞬ギクっとしたのが分かった。
「なにが?」
紀子からのメッセージを開いて机に置いた。
オーナーとのことが奥さんにバレて修羅場の末に辞めざるを得なかったと、二度と会わないと誓約書を書かされたという紀子の返信を見つめる裕一の顔が強張った。
しかし、裕一は結の顔を見ることなく、そのままパソコンに両手を添えた。謝ることなどしない。そんな男ではないしそんな女ではない。大した関係でもない。そんなことは百も承知だ。
「ねぇ」
そう言うと結は裕一の頬に手を当て自分の方へ引き寄せた。キスする少し手前。唇が触れる直前。
時間が止まったみたいに二人だけの世界に思えた。もうずっと、私は彼に恋をしている…。
「…しよ」
目線を唇から離し、裕一を見上げた。代わりに伏し目になった裕一の視線がゆっくりと落とされ、結の唇を捉えた途端、二人のそれは重なった。
ガタガタと倒れる書類のファイル。持ち上げ座らせた机で結が着いた手がキーボードに触れる。文字にならないキーが連打されたがそんなものはどうでもよかった。蛍光灯の照らす部屋で声を殺して愛撫し合う。吐息と声の間で喉を鳴らして貪る体温が艶かしい。
結が肩に吸い付く。身体を突くスピードで彼女の爪が何度も背中に食い込んだ。
裕一は思った。快楽の中でこんなにも愛おしく狂おしい気持ちになる女は他にいないと。
結を抱くといつも傷つけたくて壊したくて誰にも渡したくなくて堪らなくなる。
「あっ、っん」
この目。結はいつも同じタイミングでこの目をする。何か言いたげに切ない目で裕一を見つめる。
「……」
俺だけの女でいろ。
また、そう言いかけてやめた。
どの口が、と自分でも思う。
何かを言いたくて言わないのは自分も同じだった。好きだとか愛しているだとかそんな言葉を口にすることの陳腐さは、この歳になれば嫌というほど知っているから。だけど、いつもそれを口にしそうになる。何度も苦しそうに涙を溜めて結が必死に腕を伸ばす度、誰にも渡したくないと伝えてしまいそうになる。言葉にしてみればそれほど重みは伴わないのかもしれない。楽になれるかもしれない。伝えた途端気が晴れて結に興味が無くなるかもしれない。
「結…」
伝えてみようか。
たとえそれが傲慢な言葉のナイフだとしても。
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