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5,種④
閉店後の店内はしんとして、外の音が際立って聞こえる。奥の事務所にいるとそうでもないが、昼間とは違う空間に自分の声が少しだけ響く気がした。
「なんでそんな顔するの」
名前を呼んで何かを言いかけた裕一を思わず遮ってそう呟いていた。切なそうで、今にも苦しいと声に出して泣き出しそうに見えた。
「…ん…?
…どんな顔」
遮られた裕一が困った顔で聞く。そっと指を伸ばし、裕一の耳を撫でると、愛おしさに胸が苦しくなった。
「 ずるいよ…そんな顔しないで」
好きになんてなりたくないのに。優しいなんて思いたくないのに。愛されてるなんて勘違いしたくないのに。
「…うん、
わかった…」
裕一はそう言って、眉を下げて笑った。
「だから、もう泣くな」
言われて初めて溢れていた涙に気がつく。
馬鹿みたいだ。不倫なんてしてるくせに。立派に涙など流して何を感傷に浸っているのか。最低な男と最低な女がただ性欲を満たしているに過ぎないこの関係を、あたかも一人前の恋愛のように履き違えるなんて、そこらのお花畑カップルと大差ない。
知ってる。
知ってるんだそんなこと。
自分がまともでないことも、性が崩壊してることも。
本当は誰でもよくて、気持ち良ければよくて。
かつて抱いた教師への憧れが同時期に芽吹いた性欲と真っ直ぐに繋がって、純粋ではない快楽を知った。自分がおもちゃのように軽く扱われることへの嫌悪よりその行為で得られる快感が増す人間であることを教えられた。
そんな自分がまともな人と結婚して子供ができて家庭を築き、それなのにまた新しい男と出会った。
クズと出会い、クズに落ちる。なに泣いてんだか。泣く資格などない。周りの人をみんな不幸にしてるクズのくせに。
そんなことは、自分が一番……
この私が一番知ってる。
知ってるけど……
「でも好き」
耐えられず大粒の涙が溢れた。歪む景色に息を吐いて裕一にしがみついた。
「ごめんなさい」
謝る結の身体を抱き寄せ、痛いくらいに密着した裕一が腰を振った。最低に。いつもみたいに。いや、それ以上に。
それしかないから。私たちはそんな関係だから。クズでしかないから…
ふと、あの靴下が目に浮かんだ。
子供の靴下。
オレンジ色の夕陽と鮮明に残る残像。
ごめんなさい。
やっぱり、この人のことは返せないかも。
嘘ついてごめんね…
それでも欲しくなったんだ。
ぜんぶ。
気持ちごと…
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