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1,溺れる花③
結がパートを始めてすぐの頃、商品棚の整理、レジのトラブル、店内の混雑に対応して事務所から裕一が度々登場しては救ってくれることがあった。業務上仕方のない対応だったのかもしれない。オーナーとして当然の行為なのかもしれない。そんなことは百も承知で、結は自分の胸が高鳴るのを抑えられずにいた。いつも午前10時になると出勤してくる。背が高くて体が大きく見下ろす目が優しい。いつの間にか結は裕一ばかりを目で追っていた。
3ヶ月が過ぎたある春の日、仕事を終えて帰ろうとすると事務所にいた裕一に呼び止められた。振り返り、顔を見ると照れ臭そうに笑いながらおいでと手を広げられる。
「なんですか?」
「何って?」
「冗談?」
「いいや、そのつもりはないけど」
やめて…
私は結婚してるし…
「とりあえず来たら?」
「結婚、してるんで」
「知ってるよ?」
「子供もいるんで」
「それも知ってる」
「こういうのは…」
「受け付けない?」
そのうち椅子から立ち上がり、裕一は結を壁へ追い詰めた。大きな体が至近距離から結を包み込む。
だめだって……
言葉にならない。声に出来ない。押しに弱く流れに飲まれやすい自分。もうやめたはずなのに…。断れない。違う、断りたくない。可愛がられたい。嫌われたくない。好かれたい。愛されたい。だから言えない。
乱れた感情がまとまりもなく脳内に沸き上がる。
「茅野さんて、特別なんだよね」
「特別って…」
「うん?んー、特別扱いしたくなる」
「でも。私、なんていうか」
言い終わる前に視界が暗くなった。その衝撃に、何を言おうとしたのかなんて一瞬で忘れた。覆いかぶさった体が結を包み込み、隠し込むようにキスをする。バタバタと暴れて拒否しようとしても無駄だと言わんばかりに押し込められる。
「しー。うるさい」
「待って…お願い…」
好きとも言われず、合意も無く、ロマンチックも何も無い。ただ無茶苦茶に唇を吸われ、舌を絡ませてくる。野蛮で、決して気持ちいいキスではなかった。だけど、とてつもなくドキドキして、何かが急激に満たされていく気がした。ぽっかり。その言葉通り空いていた、私の体のどこか。笑っても泣いても満たされず、寂しいでも苦しいでもない、どんな言葉でも埋められない、どこか。
「そんな顔、するんだな」
言われてハッとした。一体どんな顔をしていたのか、自分では分からない。
「火照ってる…」
「…それは」
「濡れた?」
「…そんなこと、聞かないでください」
「俺は勃ってる」
「聞いてません」
「ここ、この部屋の唯一の死角」
「そうだったんですね」
言いながら、体を離し奥の席に戻る裕一に何故かついて行った。そのまま並んで座ると、体の奥底からため息が出た。
「……はぁ…」
どうしよう。最低だよ。
「そんな、やっちゃったーみたいな顔すんなよ」
裕一は笑ってポンポンと優しく頭に触れた。
本音だった。やってしまった、と思った。だって、約5年間封印していた"癖"が解かれてしまったのだから。
「…特別扱い、って」
「うん」
「本当?」
「うん。出来ることでお願い」
本当は取り消して欲しい。
今の記憶全部…
「コーヒー、飲みたい」
「え、あ、ハハハ!
いいよ、買いにいこ」
意外な注文だったと言いたげに、そして飼い犬を見るような目でにやける裕一に結は唇を尖らせた。
「なんですか?」
「いや、一緒に飲も」
これで、承認したことになるのか。
或いはキスをコーヒーで売ったことになるのか。
「はい」
結は小さく頷いた。
家族のいる家に帰ると、さっきのキスも苦しいほどのハグも嘘だったんじゃないかと思った。その反面、心はざわついてソワソワとして落ち着かない。結はいつも通りを装って、しかし話しかけられないようにイヤホンで音楽を聴きながら食事を作り、それをリビングで夫と子供と食べながら流れているテレビ番組に笑った。
だけど、頭の中は裕一の声と抱きしめられた体の余韻と野獣のようなキスが連続再生されていて、思い出すだけで女としての欲望が全身を支配した。五年ぶりの感覚に震えそうになる。また家族に嘘をつく毎日が始まるのかと思うと煩わしさと共に好奇心が漲るのを我慢出来なくなりそうだった。
[ねぇ]
その夜、そんなメールが来たのはまだ眠るには早い時間。家族もまだ起きてそばにいる。
[はい]
[俺のことどう思ってる?]
あんなことをして、少しは冷静になったのだろうか。不安げなメールに思えた。
[嫌い?]
返しそびれ、続けて聞かれる。夫と子供が隣で笑っている。この家を壊したくはない。今度の自分は家族に嘘をついても正気を保てるだろうか。
[嫌いな人とはあんなこと事故でもしません]
[じゃあ、好き?]
ため息が出そうになった。自分は何も言わないくせに、結にとって一番認めたくないことを言葉にしろと脅してるようなものだ。
[好きですよー]
投げやりになってしまった。夫以外の人を好きになることがどんなに苦しく、どんなに惨めで、どんなにえげつないことか、私は知ってるはずなのに。
[よかった…]
ずるい。この人は知ってるのだ。私の中にいる、本当の私を。見透かされてる。
[オーナーは?]
[めっちゃ好き]
即答する裕一に思わずにやけた。
それを隠して立ち上がると、コーヒーを淹れにキッチンへ入りカップを取り出した。
[付き合うか?]
続けて来たメールに、断る余地など無い気がした。
こうなることは分かっていた気がする。いつからか目で追う私の気配を裕一がキャッチしていたように思う。同時に、自分を目で追う裕一の存在も少なからず視界に入っていた。
そのことに気付かないように、冷静に、淡々と毎日を過ごすように努めていた。そうすることで二度と家族の輪から出ないで済むと思っていた。まだ間に合うと信じていた。
甘い。そんな考え。私は私なのに。変われるはずないのに。
翌朝、結は雑貨店『アルー』の扉を開ける。心地よい鐘の音が鳴る。
「おはようございます」
何食わぬ顔。
昨日探しておいたそんな名前の仮面をつけて勤務についた。久しぶりの感覚。家族の前でつける仮面も用意してある。感覚ならすぐに思い出せるだろう。もう戻れない。きっと私の病気は直らない。
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