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31:冥界へ行こう!
シュトラール城の中庭は、百を超える種類の花が咲き乱れる園となっている。花びらのライスシャワーが美しいその場所でノームはぼんやりと黄昏ていた。昨晩から流し続けた涙は既に枯れている。頭の中では、すっかり痩せ細って動かなくなった母ペルセネの姿と彼女の胸元に示されている“冥界の主の寵愛の証”が焼き付いていた。あの証さえなかったら、ペルセネはまだ生きることができたはずなのに。そんな想いが怒りとしてノームの中で煮えくり返っていた。
「…………、」
中庭のベンチに座り、己の右手を眺めるノーム。ペルセネの死体の冷たさが今でもここに蘇ってくるのだ。鼻の奥が痛む。頭を抱えた。
──結局父上は最期まで一度も母上の見舞いに来なかった。
──ついに余は、独りになってしまったのか……。
すると、その時だ。
──『ノームは落ちこぼれなんかじゃないよ。堂々としてればいい。貴方はとっても素敵なんだから!』
ノームは目を丸くする。ここ半月会えていないエレナの言葉と笑顔が自然に思い浮かんできたからだ。誰よりも無垢な彼女の言葉に、ある一つの想いがノームの脳を占めた。ノームはそのことをようやく理解すると、枯れたはずの涙が再び頬を伝うのを感じる。
──嗚呼、エレナ。
──誰よりも真っ直ぐな君は、こんな絶望に沈む余の心すら癒してくれる。
──余は今この瞬間、この世の誰よりも──君に会いたい。
「──ノーム殿下?」
「っ!」
ノームは勢いよく顔を上げる。あり得ないとは分かっていても、「もしや」と願ってしまった。しかし、違う。ノームの目の前にいたのは彼が求めていた少女ではなかった。
「どうして、貴女がここに……」
ノームの眼前に現れたのは現恩恵教聖女──レイナ・リュミエミル。エレナの後継者ともいうべき少女だ。ノームは突然現れた客人にすぐに立ち上がり、会釈をする。隣国の要的存在である彼女に礼を尽くさない理由がない。噂通りの絹のような白髪に、あどけない顔つき。雰囲気はどこかエレナに似ているというのにどうしてなのか、ノームは彼女を警戒してしまう。レイナはそんなノームににっこり微笑んだ。レイナの後ろに控えている侍女二人がやけに意地の悪い笑みを浮かべているのが気になった。
「あら。あたしがペルセネ様のお見舞いに伺うことは今朝そちらに伝えてあるはずだったんですけど、ノーム殿下はお聞きではなかったのです?」
「っ、」
お見舞い。その言葉にノームは拳を握りしめる。今朝ならば既にペルセネが死亡していることはレイナの耳に届いているはずだ。その上でお見舞いと彼女は言った。まるでペルセネがまだ生きているかのように。ノーム自身にペルセネが亡くなった事実を口にさせたいのか。なんにせよそれがレイナからの嫌がらせであることにノームは気付く。
「……、何を、言っているのですかレイナ様。ペルセネ王妃は昨晩お亡くなりに、」
「まぁ! 本当ですか!? どうしましょう、せっかくお花も用意しましたのに! でもせっかくですからノーム殿下が受け取ってくださいませ。ほら、シーズンフラワーの花束ですわ」
「!!!」
シーズンフラワーとは季節によって色が変色する魔花の一種だ。時の移り変わりに大きく関わるその特徴からその花言葉は「永遠」。明らかな皮肉だ。クスクス、と笑い声が聞こえる。ノームはふざけるなと叫びそうになったが、王太子としての理性がそれを止めた。どうせこの城で煙たがられるノームが無礼だと騒いでも、シュトラール国王も打ち合ってはくれない。歯を噛みしめながら、感情を押しこめて礼を言う。
「いえいえお気になさらないで。隣国の好でしょう。それに、どうせそれは用事のついでですから。では、これから私はヘリオス王とサラマンダー殿下との対談がありますのでこれで失礼致します。ノーム殿下もどうかお元気で」
「…………っっ」
今にもレイナに殴りかかろうとする己を心の中で殺す。悔しくて堪らなかった。母の事まで侮辱されたというのに、怒りに身を任せることができない冷静な自分が情けない。
──刹那。
「……あら? 雨?」
レイナのそんな声が聞こえる。ノームが顔を上げれば、確かにレイナの頭にピンク色の雨がじょぼぼぼ~っと降っているではないか。しかし、その雨の範囲は彼女の頭上に収まっている。そして次の瞬間──
「──ノーム!!!」
「! エレナ!?」
レイに乗ったエレナが丁度レイナの上に着陸する。「ギャフン!」という声が聞こえたような気もするが、エレナは気付かなかった。ノームは突然現れたエレナに唖然とするしかない。
「え、エレナお前! どうやってここに!? 国の兵士に攻撃されなかったか!?」
「私の知り合いにバンシーさんっていう妖精がいてね。そのバンシーさんに姿を隠す魔法をかけてもらったから気付かれなかったよ! それよりもノーム──行こう!」
エレナが真っ直ぐにノームに手を伸ばす。ノームはどこに行くんだと眉を顰めた。その問いにエレナは一切迷わずに──
「決まってるじゃん! ペルセネ王妃はハーデスの呪いで命を奪われたんでしょう? なら、そのハーデスに文句を言いに行こう! 冥界に行こう!」
──と、言い放った。これにはノームも耳を疑うしかない。
「は、はぁ……? お前、何を言ってるんだ。ハーデス様は元は神だぞ!? そんな方に、文句を言いに行く? それに冥界って、ネクロポリスに行くつもりか!?」
「うん、そうだよ。あ、剣とか使えそうなのは持ってきたから安心して!」
「安心できるか! 余の事はもういい! エレナ、お前の気持ちは嬉しいが──」
「──本当にいいの? ノーム自身は悔しくないの? 貴方は理不尽に大切な人を奪われたんだよ」
「っ!」
エレナはノームから目を離さなかった。その強い眼差しにノームは石になる。いつの間にか、顎から涙が滴り落ちていた。唇を必死に噛みしめる。あの髑髏さえ、なかったら。その想いが再度ノームの心を支配した。
「……っ、悔しいに、決まってるだろう!! 本当は、お前の言う通りにしたい! でも無理なんだよ! 余には、何もでき──」
「OK。その言葉だけで十分だよノーム」
「──はっ?」
ノームの足が地面から離れる。レイがポカンとするノームの首根っこを咥えて、ぐいっと背中に放り投げた。ノームは綺麗にエレナの背後に収まる。
「よし決まり! ほら、ノームもヘルメット被って!」
「はぁ!? はぁああ!? エレナ、お、おまっ!」
ノームが抗議をする前に、レイが翼を広げた。ある程度上昇すると、エレナは大陸の地図を凝視する。
「えっと、こっちが西だから……レイ、あっちに真っ直ぐ!」
「ぎゃう!」
「お、おいエレナ! お前、なんて強引に! 冥界だぞ!? 冥界の主だぞ!? 本当に行くのか!?」
「勿論行くよ。一応冥界についてある程度調べてきたつもり。危なくなったらすぐに引き返すからさ」
「……っ、どうして、そこまで……」
「決まってる。私の大切な人が理不尽なことされてるんだもん。そりゃ私だって怒るよ。それに私が一番怒ってるのはノームが理不尽を怒ることすら諦めていること!」
「!」
「ネクロポリスに行ってもペルセネ王妃の魂はおそらく帰ってこないし、そもそもハーデスに会う前に危険な目にあって私達は引き返すかもしれない。私達の行動には何も意味がないかもしれない。……でも、それでもさ、ギリギリの所まで進んで、『ハーデスの馬鹿野郎!』くらいは叫んで帰ろうよ。私達は怒ってるんだって、苦しんでるんだって、少なくとも行動で示そうよ! それはきっと意味がなくても、無駄なことなんかじゃない。私も一緒に叫んであげるから! ……ね? ノーム」
「──、──……っ、」
ノームは震えた。エレナの腹に回した腕に力が篭もる。エレナの肩に、額を押し付けた。
「うっ、……ひくっ、うぅ……ありがどう……っ、ずまない……っ!!」
小さな、弱弱しい声だった。エレナはぐっと口角を上げて、そっとノームの頭をぽんぽん叩く。エレナの胸に忍ばせたルーも力強い一鳴きで怒りを露わにしていた。
「──じゃあ行こうノーム! 後は前に進むだけだよ!」
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