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51:約束
なんだこれは、とエレナは思った。ゾワリゾワリとエレナの中の世界が壊れていく、そんな感覚だ。
「ヘリオス王もあたしにノーム殿下をよろしくと仰っていました。嬉しい!」
「そうか。父上が……。本当によかった。父上の事だから余が愛する人と婚約することに反対すると思ったよ。彼は落ちこぼれの余の事が嫌いだからな……」
レイナは悲しげに笑うノームの頬に触れた。ピクリ、とエレナの体が揺れる。
「ノーム殿下、貴方は落ちこぼれなんかじゃないわ。そんな顔をしないでください」
「レイナ……。ありがとう。お前の言葉はいつだって余を癒してくれるな」
頬に宛がわれたレイナの手を、ノームの手が優しく包み込んだ。エレナはそんな二人のやりとりにナイフでズタズタに切り裂かれたように胸が痛くなる。溢れてくる何かを、必死に押し殺した。レイナがエレナを見て、「あら、ごきげんよう」とにっこりする。
「レイナ! 貴女、ノームに何をしたの?」
こてんとわざとらしく首を傾げるレイナにエレナの口調が強くなっていった。
「とぼけないで。貴女は既にウィン様と婚約しているはず。それなのにどうして貴女がノームと婚約することになっているの!? しかも、明日が婚約式だなんて……! ウィン様とは婚約破棄したってこと!?」
「?? どうしてウィン様と婚約していたらノーム殿下と婚約してはいけないんです?」
(──は?)
エレナは口をぽかんと開ける。レイナの顔が心の底から「どうして?」と語り掛けてきた。まるでこちらの方がおかしいとでも言いたげに。
「どうしてって、重婚なんておかしいでしょう? しかも二人は違う国の王太子! スペランサはこれを容認しているの?」
「スペランサ国王にも、勿論ウィン様にも既に話してあります。それどころか彼らもあたし達の婚約式に参加する気満々ですよ? 重婚の何がおかしいのですか? そこらへんの国の王様だって後宮くらい持っているじゃないですか。それなのに……どうしてあたしは駄目なんですか?」
「…………っ、」
「その顔、分かっていないみたいですね。エレナ様、元恩恵教聖女ならば分かるでしょう。あたしの今の髪が何色に見えているんですか?」
「!」
レイナは絹のような白髪を手で流し、クスッと口角を上げる。そうしてエレナの耳元に口を近づけた。
「これこそ絶対神デウス様があたしの行動を肯定している証拠そのものです。そもそもおかしいでしょう。どうして神の存在証明であるこの聖女が、たかが人間ごときが作ったルールに縛られなければいけないの? 『どんな不条理であろうとほんの少しも疑心を抱くことなく従う絶対的な狂信』。デウス様はそれを望まれているのですよ?」
「!」
レイナは軽い足取りでエレナから離れると、再度無邪気な笑みを浮かべる。
「でも安心してください。ウィン様とあたしは元々恋愛感情はお互いに持っていません。利害の一致で婚約者になっただけですので。だから、浮気ではないんですよ。あたしはちゃんとノーム殿下だけを愛してるんです。……ね? ノーム殿下?」
「……、あぁ。余もレイナを愛してる。心の底から。だから、貴女も余らの婚約を応援してくれないか? エレナ嬢」
ノームがエレナを真っ直ぐに見つめてそう言った。エレナはそんなノームに俯く。ふるふると震えはじめるエレナにレイナは二ィッとほくそ笑んだ。
傍にいたサラマンダーがエレナに声を掛けようとしたが──その前に彼女は自分の髪に添えていた髪飾りを外し、ノームに見せつける。それはテネバ―サリーの時にノームがエレナに贈ったものであった。
「ノーム、これが何か分かる?」
「!! そ、それは……たしか、それは──っ、う……いや、知らない。余は、それを知らない……っ? えっ……?」
するとどうだろう。ノームは酷く混乱した様子で頭を抱えた。ノームの瞳が一瞬赤く濁った後──どういうわけかそんな彼の瞳から涙が溢れてくる。彼自身、どうして泣いているのか分かっていないようだった。エレナは歯を食いしばる。ノームの「無意識のSOS」を確かに受け取ったからだ。ノームの涙を見た途端、エレナの中で何かが音を立てて切れた。
「……そう、知らないのね。分かった」
再度俯くエレナ。レイナはそんな彼女の顔を覗きこんでやろうと近寄っていく。
「あれ? あれれ? もしかしてエレナ様、泣いてる──」
「──んですか」と続くレイナの言葉は吹き飛ばされた。エレナの全力の平手打ちが彼女の頬に衝突し、脳を揺らす。そのままレイナは仰け反って、頭から地面に倒れた。真っ赤な頬でこちらを唖然と見上げるレイナにエレナは冷たい視線を送る。
「貴女がどんな手を使ってノームの記憶を弄ったのかは知ったこっちゃない。……でもね、これだけは言える。ノームは貴女の玩具でもなんでもないよ、レイナ・リュミエミル! 私は貴女を許さない。絶対にノームを元に戻してみせる。絶対にっっ!!」
「!!」
そしてエレナは唖然とするノームに視線を移した。彼の身体がビクリと揺れる。エレナはノームに足早で近寄ると──その濡れた両頬を自分の両手で包んで、母親のような優しい笑顔を浮かべた。
「エレナ、嬢?」
「──待っていてノーム。私、こんなアホ聖女に負けないから。絶対に貴方を元に戻してみせるから……! 約束だよ」
「っ!」
エレナはそう言うなり、颯爽とその場を去った。サラマンダーが慌ててエレナの後を追う。ノームは倒れるレイナに手を差し伸べつつ──去っていくエレナの後ろ姿からどういうわけか目が離せなかった。
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