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楽園の職業
天使には顔がなかった。
二カ月前から天国にいる。此処での生活にももう随分と慣れたものだ。
初めて天国を見たとき、わたしはとってもガッカリした。
見た目に関しての文句はない。此処はたしかに聖書や予言の通りに美しく、荘厳で、光に満ち溢れている。常に温暖な気候で、足元にはふわふわと雲が漂い、雲海のうえを滑るようにして天使たちが進んでいく。真白な世界。
でも、天使たちに顔がない。
天国に来れば美しい顔をした金髪の男たちをいくらでも見られると思っていたのに、実際には能面ですらないまっさらな顔の天使たちがのんびりと仕事をするのを眺めているだけ。こんなのぜんぜん「天国」じゃない。と誰かに訴えようとしたところで、口もなければ耳すらない天使たちは(なんとなく微笑んでいるような感じはするものの)わたしに答えを返してくれることはなく、結局この不満は一人で抱えているしかなかった。そう、ここには天使とわたししかいない。一人につき一つの天国が与えられているのだろうか。それともここは本当は天国でもなんでもないんだろうか。
あるのは雲海と天使たちとわたしだけ。草原のようにそよぐ雲海の揺れと、限りなく純白に近い薄い空。それしか見るべきものがない。
天使たちとわたしは全く同じ服を着ている。ここには職業や身分の貴賤といったものがない。誰一人として偉そうな天使には出会ったことがないし、誰一人として新人らしい天使を見かけたこともない。
だからここは完全な楽園なのだ。
揺らぐ炎の輪郭に似ている曖昧さを宿す雲。それらが足元を覆い隠し、ずっとずっと遠くまで雪景色のように白い世界。天使たちは今日もぼんやりと働いている。といっても大した仕事なんてない、多くの天使は服をどこかからどこかへ運んだりしているが、本当にやらなければならないことなのかどうか疑問が残る。掃除の真似事をしている天使もいるが、埃のたたないこの世界でいくら掃き掃除の真似事をしても雲がもくもくと立って可愛いばかりだ。それでも天使たちはせっせと働いている。
やることは少しもない。わたしは真っ白な世界で、蓋みたいな真っ白な空を眺めながら、たまたま隣を通った天使に聞く。
「ねえ、ずっとここにいなくてはならないの?」
天使は無言でわらっている。そのように見える。
顔がないから分からない。天使は、はい、とも、いいえ、とも言わない。
ふとわたしは、いったい何歳のときに死んだのだろうということが気になった。
生前の記憶はすべて誰かに取られていて、わたしは名前も性別も記憶も持たないままにここに連れてこられていた。でも、この二カ月の間、なにか心を重たくさせる設問が何度か自分に襲い来ることがあった。それについてはよくよく考えていた。
人間が人間を憐れむとはどういうことなのか。
→これに回答は出せない。
あの時の選択(いったいなんのこと?)は本当に間違っていなかったのだろうか。
→これはあの人に聞くべきだ。(だれ?)
わたしはするべきことを、全てしてから死んだのだろうか。
→(さあ?)
わたしは何歳のときに死んだのだろう。
ふと、顔を触れば分かるのではないか、と思った。これは名案のように思われた。
楽園ではわたしの頭も明晰となる。
わたしは――
自分の鼻に触れる。いや、そこに、鼻などなかった。
眼球に指を入れてみようと努める。たしかに視界は奪われた。でも、目なんてなかった。
鼻をふさいでも草木の香りを感じることができた。だから、わたしには鼻なんてない。
つまり。わたしには顔がない。
なんというところに来てしまったのだろう、と思う。
そしてわたしがそれを受け入れたとき、一つのファンファーレが鳴った。
ピン・ポン・パン・ポン。
その音はわたしが初めてこの楽園に足を踏み入れたときにも聞いたものだった。
遠く地平線の彼方で、一つの門が開くのが見える。わたしが入ってきた門だ。
そこに一人分の人影がぼんやりと浮かび上がるのが見える。まるで二カ月前のわたしと同じように。
その人は、わたしや他の天使たちとまったく同じ服を来ていて、そして顔がない。
わたしはその人に対し、にっこりと微笑み(いや、そんなことは出来ないのだが)、手を取ってやり、世話をしてやることに決めた。その人はまだ自分が何者なのか分かっていないようだった。まだ喋れると思い込んでいるみたいで、目や口や鼻があると思い込んでいるみたいで、しきりにわたしに何かを話そうとする。あわれだと思った。
わたしは天使になってあげることに決めた。
即興小説 / 15分 / 20210103
お題「天国の痛み」
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