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視界と塩水
てらてら。
煙硝のなかで、灯篭のように浮かび上がる炎が、連なる煉瓦の畳道を照らしていた。
びっしょりと濡れて艶めく明るい茶色。火の動きに合わせて、メリーゴーランドのようなやさしい周期で炎は世界をあらう。光の粒子がスプレーされたようにきらめき、遠くから囃子が鳴って、お祭りのように見える通りには、賑やかさに反して誰一人の影もなかった。 炎色は新緑と激しい赤とに輝き、そうしていつのまにか「ぼく」はそこに立ち尽くしている。ひとり。「かれ」がいたはずなのだ。見つけなくてはならないのに、「ぼく」はいつも「かれ」を見失う。幼いころからなくしものが得意だった。でも、必ずいる。この通りのどこかに。
頭から塩水をかぶった子ども達が、傍道を駆けてゆく。はっとするような橙が、少しずつ彩度と色彩を失って、黒い闇に溶け込んでいた。逢魔が時。世界が反転し、夜の支配が始まる。そうして「ぼく」は、あてもなく、少しずつバルーンが萎むような速度で暗くなって ゆく世界のなかを歩いた。ミヒャエル・エンデのモモのなかに登場する掃除夫がすきだった。すべてを見てはいけないのだ。少しずつ、目の前にあるところだけを片付けて、 そうして気づいたら一本の道を塗り終えている、そういった人生が理想だと――まさに 「ぼく」もそう思っていた。
しかし「ぼく」が、この玩具箱の中みたいな奇天烈ストリートをひとなぞりしたところで、あの人、「かれ」はどこにもいなかった。かなしいぐらいに消えうせていて、どこからも取り戻せない。「ぼく」は「かれ」を失ったのだと分かった。追い討ちのように後ろから熱帯魚が、なぜか潮騒を連れてやってきた。きづけば道は、海で満ちていた。
見上げれば浮き袋のように人の頭がひとつまたひとつと浮かび上がり、水面に出ては ぱちんとはじけていた。安いシャボン玉のようだった。事実、彼らに耳や目はなくて、 この島の血統の特徴にあたる美しい鷲鼻の人々が、立派な鼻梁で天を指していた。泡がとんでゆく。波が砕け、小さな泡を白く産んだ。どうしてか息が出来ることに、ようやく「ぼく」 は気づいた。
眼球を捜さなくてはならないと思った。
失われた瞳がかならず、イクラのようにどこかに保管されていると「ぼく」は確信した。それを行ったのがきっと「かれ」だということも。奇妙なもの、奇天烈なもの、甘美なもの、愚かなもの、許されざるべきなにか、その傍らにいつも「かれ」はいる。
どうしてか「ぼく」は正義の代行者のような気持ちになって、しかし 「ぼく」は視界が欠けていなかったのだが むしろ欠けていなさすぎるような心地がして ふと「ぼ く」は鼻の頭を搔いた。搔いたつもりだった。しかしそこに触れ慣れた少し毛穴の目立つ鷲鼻(むろん、「ぼく」もこの町の住人だ)はなく、ゆで卵のようにツルンとした平原が広がっていて、なにもなかった。そうか、耳と目の代わりに、「かれ」は「ぼく」から「ぼく」の鼻を奪ったのだと分かった。その奇妙な感触は、以前左の人差し指の爪をぶつけて失い、六週間ほど一本の指の爪のない人として過ごさなければならなかったときのennui<アン ニュイ>で気がかりな感情に似ていた。撫でたところで帰ってくるわけもないのに、「ぼく」は「ぼく」の鼻があった場所を、子犬の世話をするようになぞっていた。いや、先ほど海水のつんとする香りが分かったのだから、ここはそもそも、まだ鼻なのだ。ただ鼻の形を成していないというだけで。
再び決心を繰り返し、「ぼく」は道を歩き始めた。陸生の動物としていままで生きてきたはずなのに、どうして「ぼく」がこの水に満ちた、もはや海底都市とも呼びたくなるようなこの場所を浮力の邪魔を受けずにまっすぐ歩くことが出来るのか、とうてい不思議でならなかった。自分の鼻がなくなっていることよりも、浮力がなくなってしまっていることのほうが、「ぼく」には恐ろしく感じられた。
空――いや、海面を、「ぼく」は見上げた。あの上へはもう行けないのだ。いくらジャンプしたところでピーターパンのように空を飛ぶことは出来ないのと同じで、確かにここは水のなかなのに、地面を蹴ってもまったく浮き上がることができない。これから生涯、空気に触れることはできず、底生生物として命を得るしかない。 通行人にもはや、人はいなかった。 ウニ、海鼠、タコ、蝸牛、名も知らぬネクトン、様々な生物が人の身体を乗っ取るように、あるいは乗りこなすように使っている。一度タコとしゃべることが出来たらぜひ聞いてみたいと思っていた質問があるのだが、いまはさすがに時間がなさそうだ。ぐんねりと街を見渡してみて、どうしてか磯の香がしないことに、「ぼく」はようやく気付 いた。
不思議なうみ。しょっぱいだけの塩水。「ぼく」は、霞みつつある視界を、つまり水 が濁り始めていることに気付きながら、振り返った。シャンプーのコマーシャルみたい に、男にしては長い「ぼく」の髪がふんわりと浮き上がる。髪だけは浮力を許されているようだった。
いた。
ようやくにして「ぼく」は見つけた。それは――あるいは「かれ」は――眼球は、群 生を成して、スイミーのように遊泳していた。
「やあ、ようやく見つけたかい」と、のんびりした声が響いた。どうしてか声は美しく響いた。二人の間に、一本だけ空気の通り道が開いていて、そこを音が辿って聞こえたような、そんな不思議な明瞭さだった。むろん、「かれ」には一つの口もない。
「この姿ではよくないね」と「かれ」は言って、目玉の列はみるみるうちに蝋燭が溶けるみたいに姿を変えていった。「ぼく」はここにきて初めて吐き気を催した。たった二つだけ、姿を変えず頭に残った目玉が、清冽のなか「ぼく」のことを見つめるのが、どうにも耐えられなかったのだ。幾重の眼球は溶け出し、分岐し、時には自死を繰り返して、最終的には人体を作り上げた。どうしてか、彼は燕尾のスーツまで着ていた。
「これ、いい仕立てだろう。これだから他人の身体を貰うのはやめられない」
「あなたのせいだと思ったんです。絶対にそうだと思った。分かり切ったことです」
「ああ、叱りにきたの? 寂しいな。旅立ちのまえにわざわざ会いに来てくれたのかなって、とても嬉しかったのに。夢はすぐにやぶれる」
「宝石を集めたいだけだと思っていたのに、自分の身体にしてしまうなんて」
「収集家ではないんだ。集めて遊ぶだけ、見て楽しむだけ、そんなのつまらない。 君の眼球をまさに僕の眼球にしたことで、愛を伝えられるかと思ったんだけど」
いたずらのばれた子どものように、「かれ」は他人の臓器で出来た肩をすくめてみせた。そして「ぼく」の瞳で、「ぼく」を見つめる。
指で、眼窩に触れる。そこには空洞があった。どうして視界があるのだろう。でも、 鼻がなくなったあとも海の香りを知ることはできたから、そういうものなのかな。いや、ちがう、嗅覚はさっき消えたんだった。ただここにあるのは塩水。だから多分、今回も。
「盗ったな」
「大丈夫、全部見てきてあげるからね」
彼は唐突に溶解し、巨群となって、泡を吐きながら大海の遠くへ消えた。いつのまにか街並みは消え失せ、あたりは本当にただの海になっていた。シャットダウンしたみたいに視界が消えたあと、再起動がかかるみたいに、僕には聴覚と嗅覚と、そして視界とが戻った。しかしその操り手は僕ではない。遠く遠く、僕の知らない世界を、彼は泳いでいく。白いアネモネが水草の合間に揺れている。誰かが歌うような声が聞こえる。わずかながらの潮の香。ああ、たしかに美しいのに、これはぼくの視界と聴覚と嗅覚なのに、永遠に取り戻せない。美しいとかきれいとか、そんなの全然関係ない。彼は僕のことを、ごっそり手に入れていったのだった。
<了>
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