ミルクに砂糖は入らない

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ミルクに砂糖は入らない

 それは巨大な目をしているのに頭部にデイジーが咲いていて、唸るような声を出すのにどこか懐かしい感じがした。だから、ぼくは震える両足でなんとか立って、話しかけてみることにした。やあ、はじめまして。もしよかったらミルクでも飲む?  もちろんそんな声掛けは一切通用しなかったので、全速力で今、廊下を走っている。もともと運動に適さない皮靴が悲鳴をあげている。大きな猫に追いかけられている。振り向くと思ったよりも目が大きくてまんまるで、可愛らしいななんて思った。でも駄目だ、どれだけ可愛い猫でも鼠取りをするんだし、あの猫の巨体からすると比率的にぼくは鼠よりも小さい。  にしてもどうして深夜の学校にあんな化け猫がいるんだ、いや、昼の学校にいるよりはもちろんずっとマシだけど、ああむしろ僕が深夜の二時にもぐりこんだのが悪いのか。廊下は走っちゃいけません――そんなポスターが、過ぎる視界の端に見えた。「下校時間後は学校に立ち入ってはいけません。なぜなら化け猫が出ますので」とも書いておいてくれていたら、ひょっとしたらこんな目に遭わずに済んだかもしれないのに。ああ、痛い。走る用途には向いてないんだ、この足は。  短い廊下はすぐに終わる。突きあたりの教員室が、非常灯に照らされてぼうっと光っている。ドアをがちゃがちゃとやったが全然開かない。しかたなく僕は振り返り、ドアを背に猫と対峙する。相変わらず彼女は大きくて、デイジーが咲いていて、呻いている。 「や……やあ」  どう、具合は? と話しかけてみたけれど、まるで通じている様子はない。ああ、そうだ。もちろんそうだ。だってこいつは猫なんだし、そのうえ猫バス並みに大きい――つまり化け物なんだから!  まん丸の、満月みたいな瞳が輝く。赤い月が二つあるように見えて、ちょっと幻想的だな、なんて呑気にもそう思った。僕はいつもこういう時に、正しく狂気を保って大騒ぎすることができないから、人間たちにもよく「変わってるなあ」って言われる。人間ってすぐ、ぎゃーって喚いたり泣いたりするからね。  え、僕? ああ、もちろん、人間じゃないよ。  化け猫でもない。  僕は―― 「……こっ、こら! もう、やめろって……」  大猫は、僕の中にたっぷりと溜まった、ミルクを舐める。ぴちゃぴちゃと舌を出して嬉しそうだ。だから、言ったのに。ミルクでも飲む? って。  まあさっきは混乱していたんだろう。非常灯の光を受けて、ようやく僕がミルク入れだってことに気付けたのに違いない。全く困った猫だけれど、でも、どうしてこんなところに一匹だけでいたんだろう? 「……しかも首輪もなし、か」  この国では化け猫は様々な面で大人気だ。これほど目立つ猫が、飼い主を持たずに歩いているなんて珍しい。ま、全くないことってわけでもなくて、化け猫だってミルク入れだって、嫌だって思ったら人間たちから逃げ出すのは当然だ。当たり前に与えられるべき権利だし、もしもそう決まっていなかったとしても、猫・及び猫関連の品である僕たちが、だれかの決めたルールに従うはずもないしねえ。 「にゃー」  と、猫が鳴く。相変わらず何を言っているのか分からない。僕も猫足(と、その足に履いた革靴)を鳴らしてトントンと鳴く。猫たちは、人間や道具の言葉なんてひとっつも覚えようとしないから腹が立つ。  暫くは、一匹と一台で過ごすのもいいかもしれない。多分この猫も、どこかのつまんない人間の元から逃げ出して、主人が毎日でかける「ガッコー」とやらに憧れ侵入してきたところなんだろう。多分が気が合う。きっとそうだ。ニャー。 <了>
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